第十四話 男性の骨
眠れなかった。
目を閉じても、ニュースの文字が浮かんでくる。
旧南町。
人骨。
身元不明。
事件、事故の両面で調査。
たったそれだけの言葉が、神谷正の頭の中で何度も形を変えた。
七年前の雨。
濡れたアスファルト。
鈍い音。
倒れた人影。
その全部が、またはっきりと輪郭を取り戻していく。
正は、何度も自分に言い聞かせた。
まだ何も分かっていない。
あの骨が、七年前の事故と関係あるとは限らない。
そもそも、場所が近いというだけだ。
七年前に自分が轢いた人間が、その場所に埋められていたなどと、そんなことがあるはずがない。
けれど、その否定は、声にすればするほど弱くなった。
あるはずがない、そう思いたいだけではないのか。
正は、夜中に何度もスマートフォンを手に取った。
ニュースを検索する。
同じ記事が出てくる。
短い文面。
少ない情報。
新しい続報はない。
それなのに、読み返してしまう。
何度見ても、そこには同じことしか書かれていなかった。
身元は分かっていない。
性別や年齢も調査中。
警察は事件、事故の両面で調べている。
正は、画面を伏せた。
部屋は暗い。
窓の外には、雨は降っていない。
それでも、耳の奥では雨音がしている。
七年前の雨。
止むことのない音。
結局、朝までほとんど眠れなかった。
会社へ行く支度をしている間も、正の頭はぼんやりしていた。
ネクタイを結ぶ。
鞄を持つ。
玄関で靴を履く。
そのどれもが、少しずつ遅れているように感じる。
駅へ向かう道は、いつも通りだった。
通勤する人々。
開店準備を始める店。
横断歩道を渡る学生。
誰も、正の中にあるものなど知らない。
当然だった。
知られるはずがない。
知られてはいけない。
会社に着くと、正はいつも通り自席に座った。
パソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
予定表を見る。
仕事はそこにある。
資料も、連絡も、確認事項も、昨日と変わ
らず正を待っている。
だから、正は仕事をした。
少なくとも、仕事をしているふりはできた。
文章を読む。
数字を確認する。
森田からの質問に答える。
必要な返事を打つ。
指は動く。
声も出る。
けれど、意識の奥には、ずっと旧南町の文字が残っていた。
「神谷さん」
森田が声をかけてきた。
「この見積もり、先方に送っていいですか」
「ああ」
正は画面から視線を外さずに答えた。
森田が少し黙る。
「確認、されました?」
正はそこでようやく顔を上げた。
「……すまない。もう一度見る」
「お願いします」
森田は少しだけ心配そうな顔をした。
正は資料を受け取る。
数字を見る。
条件を見る。
いつもなら、すぐに気づくはずの修正点が頭に入ってこない。それでも、どうにか目を通した。
「三行目の納期条件だけ直してくれ。あとは送っていい」
「分かりました」
森田はうなずいたが、まだ少しこちらを見ていた。
「神谷さん、今日も寝不足ですか」
「少しな」
「無理しないでくださいね」
「ああ」
短く返す。
それ以上、言えることはなかった。
昼前になっても、正の落ち着かなさは消えなかった。
社内のざわめきが、いつもより大きく聞こえる。
電話の音。
コピー機の音。
誰かの笑い声。
その一つひとつが、正の神経を浅く削っていくようだった。
正は何度もスマートフォンへ手を伸ばしかけた。
ニュースを見たい。
見たくない。
続報が出ていれば、何か分かるかもしれない。でも、分かってしまえば、もう戻れないかもしれない。
その繰り返しだった。
昼休み少し前。
部署の隅で、また誰かが声を上げた。
「昨日の人骨のニュース、続報出てますよ」
正の背中が、固まった。
見ない。
聞かない。
そう思ったのに、耳は勝手にそちらへ向いた。
「え、身元分かったの?」
「いや、そこまではまだ。でも、男性の骨らしいです」
男性。
その言葉が、正の中に落ちた。
すぐには意味を理解できなかった。
男性。
女ではない。
七年前、自分が雨の中で見た人影は、女に見えた。
長い髪。
白っぽい服。
赤い傘。
少なくとも、正の記憶の中ではそうだった。
男性。
なら。
なら、違うのか。
正は、動けなかった。
周囲の声は続いている。
「しかも、骨に刃物の痕みたいなのがあるって」
「え、事件じゃん!」
「まだ可能性って書いてある。警察が詳しく調べてるって」
「怖いな。あの辺って普通に通る場所だよね」
「昔の事件かもな」
刃物の痕。
その言葉で、正の胸の中にあったものが、少しずつほどけていった。
交通事故ではない。
少なくとも、自分が車で人を轢いたことによってできた骨ではない。
男性。
刃物の痕。
なら、自分ではない。
自分の事故ではない。
七年前の雨の中で正が轢いた人間ではない。
そう思った瞬間、正は息を吐いていた。
長く、深く。
自分でも気づかないうちに止めていた息だった。
胸の奥が軽くなる。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
けれど、確かに軽くなった。
そのことに気づいた瞬間、正は自分が嫌になった。
誰かが死んでいる。
骨になって見つかっている。
刃物で傷つけられた可能性がある。
事件かもしれない。
それなのに、自分は安心した。
自分とは関係なさそうだというだけで。
七年前の罪が、今すぐ目の前に突きつけられるものではなさそうだというだけで。
正は、そんな自分に吐き気がした。
「神谷さん?」
森田がまた声をかけてくる。
正は顔を上げた。
「どうした」
「いや、今、すごく顔色悪かったんで」
「……少し、頭が痛い」
「本当に大丈夫ですか」
「ああ。大丈夫だ」
大丈夫。
その言葉は、今日も便利だった。
森田はまだ心配そうだったが、それ以上は聞かなかった。
正はスマートフォンを開いた。
手が少し震えている。
ニュースアプリを立ち上げると、すぐに続報が見つかった。
旧南町の工事現場で見つかった人骨について、警察は男性のものとみて身元の確認を進めている。
一部の骨には刃物による損傷とみられる痕があり、警察は事件性も視野に捜査している。
短い記事だった。
けれど、正には十分だった。
男性。
刃物。
事件性。
その三つの言葉が、正の中の恐怖を別の場所へ押しやった。
自分のひき逃げではない。
そう思える材料が、そこにあった。
それなのに、完全には楽にならない。
なぜなら、その記事の中には、まだ七年前の気配があったからだ。
旧南町。
あの雨の夜と、近すぎる場所。
正は画面を閉じた。
机の上に置いた指先が、まだわずかに冷たい。
午後の仕事は、午前よりは少しだけ進んだ。
少なくとも、数字は読めるようになった。
メールの文章も、意味を持って見えるようになった。
正は資料を直し、田所企画への確認事項をまとめた。田所亜樹の名前が画面に映る。
その文字を見ても、午前中ほどは動揺しなかった。
田所亜樹は、生きている。
あの転倒事故も、一応は田所本人だったということで落ち着いている。
七年前の人影とは、関係ないのかもしれない。
そう考えると、少し息ができた。
だが、安心しきることはできなかった。
人骨は男性だった。
刃物の痕があった。
だから、自分の事故とは違う。
それは分かる。
分かるはずだった。
それでも、七年前の雨の中に見えたもう一つの人影が、正の中でまた動き始めていた。
倒れていた人影の向こう。
街灯の滲み。
雨の白い幕。
その奥に、誰かが立っていた気がした。
あれは見間違いだった。
そう思ってきた。
雨で視界が悪かった。
恐怖で頭が混乱していた。
自分に都合よく記憶を歪めたのかもしれない。
そうやって片づけてきた。
けれど、男性の骨。
刃物の痕。
事件性。
その言葉が、記憶の中の影に別の意味を与えようとしている。
正は首を横に振った。
違う。
関係ない。
自分とは関係ない。
そもそも、自分はその場から逃げたのだ。
逃げた後に何があったかなど、知らない。
知らない。
その言葉が、また胸に刺さった。
知らないのではない。
知ろうとしなかっただけだ。
夕方、会社を出る頃には、空が低く曇っていた。
雨はまだ降っていない。
けれど、湿った風が吹いている。
正は駅へ向かいながら、何度も自分に言い聞かせた。
あの骨は男性だった。
刃物の痕があった。
自分が轢いた人間ではない。
少なくとも、自分の車でできた骨ではない。
だから、関係ない。
関係ないはずだ。
そう思うたびに、胸の奥に少しだけ空気が入る。けれど、すぐに別の不安がその隙間を埋めていく。
では、七年前のあの夜に倒れた人間はどうなったのか。
その答えは、まだどこにもない。
田所亜樹ではないのかもしれない。
見つかった骨でもないのかもしれない。
なら、あの人はどこへ行ったのか。
生きているのか。
死んでいるのか。
正は駅の階段を降りながら、手すりを強く握った。
足元が少し揺れるように感じた。
電車の中では、誰もがスマートフォンを見ていた。
その中に、同じニュースを読んでいる人間がいるかもしれない。
旧南町の人骨。
男性。
刃物の痕。
事件性。
誰かにとっては、ただの怖いニュースだ。
正にとっては、違った。
一度、自分の胸を直接掴んだニュースだった。
そして、手を離したように見せかけて、まだ指先だけを残している。
家に帰ってから、正はテレビをつけた。
昨日はつけられなかった。
だが今日は、続報を確認しなければならないと思った。地域ニュースの時間に、短くその話題が流れた。
工事現場。
ブルーシート。
警察官の姿。
現場周辺を歩く記者。
画面の中の場所は、七年前の記憶よりもずっと明るかった。
昼間の映像だから当然だった。
それでも、正には、あの場所の空気だけが雨に濡れているように見えた。
『発見された人骨は男性のものとみられ、骨の一部には刃物による損傷の可能性があるということです。警察は、身元の確認を進めるとともに、事件性の有無について慎重に調べています』
アナウンサーの声は淡々としていた。
感情を入れない声。
正は、その声を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。
男性。
刃物。
やはり、自分ではない。
正はソファに深く沈み込んだ。
体から力が抜けていく。
昨夜から張り詰めていたものが、少しずつ緩んでいくのが分かった。
よかった。
そう思いかけて、正はその言葉を飲み込んだ。
よかったはずがない。
誰かが死んでいる。
事件かもしれない。
その人にも、名前があったはずだ。
家族がいたかもしれない。
帰る場所があったかもしれない。
それなのに、自分は安心している。
正は、両手で顔を覆った。
自分は最低だ。
そう思った。
けれど、その最低な安堵が、確かに正を支えていた。少なくとも、今夜は自分の罪が掘り起こされたわけではない。
そう思えるだけで、呼吸が少し楽だった。
テレビの中では、次のニュースに移っていた。
正はしばらくそのまま座っていた。
画面の音だけが、部屋の中に流れている。
雨は降っていない。
窓の外は暗い。
それでも、正の耳にはまだ、七年前の雨音が残っている。
ただ、その音は昨夜より少し遠かった。
正は顔を上げた。
机の上に、田所企画の資料が置きっぱなしになっている。
持ち帰ったまま、開いていなかった。
担当者名に、田所亜樹の名前がある。
正はその文字を見た。
田所亜樹は生きている。
見つかった骨は男性だった。
刃物の痕があった。
なら、七年前の雨と田所亜樹を結びつけるものは、少しずつほどけているのかもしれない。
そう思った。
思いたかった。
けれど、あの夜の記憶だけは、まだほどけない。
倒れた人影。
赤い傘。
そして、その向こうにいたかもしれない誰か。
正はテレビを消した。
部屋が静かになる。
その静けさの中で、正はもう一度、自分に言い聞かせた。
関係ない。
あの骨は、自分とは関係ない。
そう言い聞かせる声は、昨夜よりは少しだけ強かった。
だが、その言葉の奥で。
七年前の雨だけが、まだ小さく鳴っていた。




