第3話 ここに来る理由
その夜、男は迷わずドアを開けた。
前回のような躊躇がない。
まるで——
来る場所を知っている人間の動きだ。
「いらっしゃい」
声をかける。
男は、まっすぐカウンターに向かう。
座る。
いつもの席。
だが、その“いつも”が、
どの人生のものなのかは、もう分からない。
「……分かったよ」
座るなり、そう言う。
挨拶もなしに。
「何がだ」
聞く。
男は、グラスも持たずに答える。
「なんでここに来るのか」
その言葉で、空気が変わる。
少しだけ、静けさが深くなる。
「……話してみろ」
酒はまだ出さない。
言葉の方が先だ。
男は、ゆっくりと息を吐く。
「全部、試したんだ」
視線をカウンターに落とす。
「医者も」
指で、軽くなぞる。
「広告も」
次に、止まる。
「トラックも」
それぞれの人生。
それぞれの夜。
「全部、本当にあった気がする」
顔を上げる。
「でも、どれも続かなかった」
短く言う。
その言い方に、嘘はない。
「途中で終わるんだ」
理由は分からない。
だが、終わる。
必ず。
「……気づいたら」
続ける。
「ここにいる」
その繰り返し。
「……逃げてるわけじゃない」
少しだけ強く言う。
自分に言い聞かせるように。
「でも」
一拍。
「決めてない」
それが、核心だ。
選んでいない。
だから、終わらない。
「……選ばなかったものは」
静かに言う。
男がこちらを見る。
「消えない」
短く。
「残る」
その言葉が、男に刺さる。
「……ああ」
小さく頷く。
「全部、残ってる」
だから、混ざる。
だから、分からなくなる。
「……で」
男が、少しだけ笑う。
疲れた笑い。
「なんでここなんだ」
核心の問い。
「どこでもいいはずだろ」
確かに。
そう思うのが普通だ。
だが——
ここは、違う。
グラスを一つ出す。
氷を入れる。
音が、静かに響く。
酒を注ぐ。
差し出す。
男は受け取る。
まだ飲まない。
「……ここはな」
ゆっくりと言う。
「途中の場所だ」
男が、眉をひそめる。
「途中?」
頷く。
「終わりでもないし、始まりでもない」
グラスを指す。
「選ぶ前の場所だ」
その言葉で、男の表情が変わる。
理解に近づく顔。
「……だから」
続ける。
「選ばなかったものも、ここに来る」
消えないから。
終わっていないから。
「……じゃあ」
男が、少しだけ前に出る。
「ここで決めればいいのか」
まっすぐな問い。
だが——
首を振る。
「違う」
はっきりと言う。
「ここは決める場所じゃない」
男が、止まる。
「じゃあ何だ」
短く、強く。
答える。
「気づく場所だ」
その一言で、静けさが深くなる。
「……気づく?」
頷く。
「何を持ってるか」
そして、
「何を捨てるか」
男の呼吸が、少しだけ変わる。
重くなる。
「……全部は無理か」
ぽつりと言う。
「無理だな」
迷わず答える。
「どれかを選べば」
続ける。
「他は消える」
それが、普通だ。
だが、この男は——
選んでいない。
だから、残り続けた。
「……怖いな」
正直な言葉。
それでいい。
「……でも」
グラスを持つ。
今度は迷わない。
一口飲む。
「このままも、嫌だ」
その言葉が出た時点で、
答えは出ている。
「……そうか」
短く返す。
それで十分だ。
男は、目を閉じる。
呼吸を整える。
頭の中で、
いくつもの人生が並んでいるはずだ。
どれも本物。
どれも嘘じゃない。
「……」
静かに待つ。
ここは、そういう場所だ。
やがて——
男が目を開ける。
さっきまでと違う目。
迷いが、少しだけ減っている。
「……決めるよ」
小さく言う。
その言葉に、
余計な力はない。
だが、確かだ。
「どれをだ」
聞かない。
聞く必要はない。
それは、この店の外で続く話だ。
男が立ち上がる。
会計をする。
「……ありがとう」
初めて、そう言った。
意味を持った言葉として。
「ああ」
それだけ返す。
ドアへ向かう。
開く。
夜の空気が入る。
男が、一瞬だけ振り返る。
「……次来たとき」
少しだけ笑う。
「同じ話、してたら笑ってくれ」
その言葉に、
少しだけ、余裕がある。
「やめとけ」
短く返す。
「それはそれで、面倒だ」
男が、笑う。
今度は、自然に。
そして——
出ていく。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
グラスを見る。
一つだけ、残っている。
まだ少し、中身がある。
だが——
さっきまでとは違う。
もう、
重なっていない。
ただの一つの夜として、
そこにあった。




