最終話 残った一つの夜
男が来なくなって、しばらく経つ。
何日かは覚えていない。
この店では、時間はあまり意味を持たない。
来る者がいれば夜になり、
帰れば終わる。
それだけだ。
カウンターに立つ。
いつもの位置。
いつもの動き。
グラスを拭く。
棚に戻す。
音は、変わらない。
だが——
ほんの少しだけ、
静けさの質が違う。
あの男がいた夜は、
どこかざわついていた。
重なり合うものが、
空気を揺らしていた。
今は、違う。
すべてが、一つに収まっている。
「……そういうことか」
小さく呟く。
誰に聞かせるわけでもない。
ただ、確認するように。
あの男は、選んだのだろう。
どの人生を生きるか。
どれを捨てるか。
それは、この店の外の話だ。
ここでは、決まらない。
ただ——
気づくだけだ。
カウンターの上に、
一つだけグラスを置く。
氷を入れる。
酒は入れない。
空のまま。
しばらく、それを見ている。
理由はない。
だが、そうする必要がある気がした。
ドアの方を見る。
開かない。
静かなまま。
それでいい。
来ないことが、
“終わった”ということだ。
グラスに触れる。
ほんの少し、温度が残っている気がする。
錯覚かもしれない。
だが、それでいい。
「……悪くない」
小さく言う。
選ぶということは、
失うということだ。
だが——
何も選ばないままよりは、
ずっとましだ。
グラスを持ち上げる。
光にかざす。
透明なまま。
何も映さない。
それでも、
確かにそこにある。
カウンターに戻す。
照明を少し落とす。
店の中が、ゆっくりと暗くなる。
外のネオンが差し込む。
グラスに反射する。
揺れない。
もう、重なっていない。
ただの光だ。
「……また来るかもな」
ふと、そう思う。
別の人生で。
別の夜に。
だが——
そのときは、もう同じではない。
一つを選んだ人間として来る。
それでいい。
それが、普通だ。
カウンターを拭く。
いつもと同じ動き。
だが、その意味は少し違う。
区切るための動作。
夜を終えるための。
ドアの外に、夜が続いている。
静かに。
確かに。
この店の中も、同じだ。
何かが始まる場所ではない。
何かに気づく場所だ。
それだけで、十分だ。
グラスを最後にもう一度見る。
空のまま。
だが、もう欠けてはいない。
照明を落とす。
音が消える。
静けさだけが残る。
そしてその静けさは、
どこにも繋がらず、
ただここに在り続ける。
物語の中のバーの出来事のように、
人の記憶や感情は、少しずつ形を変えながら残っていくのかもしれません。
また別の客の、また違う夜を書くつもりです。
もしまたどこかでお会いできたら、
そのときは、もう一杯お付き合いください。




