第2話 重なりはじめる夜
その夜、男は少し遅れて来た。
ドアを開けたときの動きが、いつもと違う。
わずかな迷い。
一瞬だけ、立ち止まる。
「……いらっしゃい」
声をかける。
男は、こちらを見る。
そして、ゆっくりと頷く。
「ああ」
短く返す。
その声に、微妙なズレがある。
同じ声なのに、
どこか違う。
カウンターに座る。
いつもの席。
だが、座り方が落ち着かない。
「何にしますか」
聞く。
男は、少し考える。
ほんの数秒。
だが、その時間が長い。
「……ウイスキーで」
言葉が、途中で揺れた。
一瞬だけ、
別の何かを選びかけた気配。
グラスを出す。
氷を入れる。
音が、やけに響く。
酒を注ぐ。
差し出す。
男は受け取る。
だが、すぐには飲まない。
グラスを見つめている。
「……あんた」
突然、口を開く。
「ここ、やって長いのか」
初めて聞かれる質問。
「それなりに」
短く答える。
男は、ゆっくりと頷く。
「……そうか」
それだけ言って、黙る。
いつもなら、
自分の話を始める。
仕事の話。
生活の話。
だが、今日は違う。
話が、出てこない。
代わりに——
「……救急ってさ」
ぽつりと言う。
その言葉で、空気が変わる。
前の人生。
医者だった夜。
「……ミスすると、取り返しつかないよな」
続ける。
だが——
すぐに、眉をひそめる。
「……いや、違う」
首を振る。
「俺、医者じゃない」
自分で否定する。
だが、完全には消えていない。
「……広告だ」
次に出てくる。
別の夜。
別の人生。
「企画で……」
そこまで言って、止まる。
言葉が続かない。
代わりに——
「……トラック」
小さく呟く。
「夜走ってて……」
また別の記憶。
重なっている。
混ざっている。
「……なんだこれ」
男が、はっきりと顔を歪める。
初めての反応。
困惑ではない。
混乱だ。
「……落ち着け」
静かに言う。
男は、グラスを掴む。
一口飲む。
その動きが、
三つの人生のどれとも違う。
「……変だ」
低く言う。
「全部、覚えてる気がする」
核心に触れる。
「でも」
目を閉じる。
「全部、自分じゃない気もする」
その言葉が、静かに落ちる。
重い。
だが、正確だ。
「……」
カウンターの中で、動かない。
見ている。
これは、進んでいる。
戻るのではなく、
“重なっていく”方向に。
「……あんた」
男がこちらを見る。
その目が、さっきまでと違う。
少しだけ、深い。
「俺、何やってる人間に見える」
試すような問い。
だが、その奥に不安がある。
「……今は」
少しだけ間を置く。
「決まってないな」
正直に言う。
男が、わずかに笑う。
乾いた笑い。
「だよな」
グラスを見つめる。
氷が、ゆっくりと回る。
「……選んでないのか」
小さく言う。
誰に向けた言葉でもない。
だが、確信に近い。
「……何を」
聞く。
男は、少しだけ顔を上げる。
「全部だ」
はっきりと言う。
「どれも、選んでない」
その一言で、形が見える。
この男は——
人生を分岐させたまま、
どこにも固定されていない。
「……だから」
続ける。
「全部が残ってる」
選ばなかったものが、
消えずに残っている。
それが、今——
混ざり始めている。
「……面倒だな」
男が、小さく言う。
だが、その声に少しだけ笑いがある。
完全な絶望ではない。
むしろ、
どこかで納得している。
「……もう一杯」
グラスを軽く持ち上げる。
「いいのか」
確認する。
男は頷く。
「はっきりさせたい」
その言葉は、強い。
逃げない。
だから、止めない。
グラスを下げる。
新しく作る。
今度は、少しだけ強くする。
変化が必要だ。
差し出す。
男はすぐに飲む。
一口。
そして——
目を開く。
「……ああ」
小さく声が漏れる。
何かに触れた。
だが——
その直後、
表情が変わる。
「……名前」
呟く。
「思い出せない」
また別の欠落が出る。
混ざる代わりに、
削られるものがある。
「……そういうことか」
小さく言う。
男が、ゆっくりと笑う。
「全部持つってのは」
グラスを置く。
静かな音。
「全部失うってことか」
その理解は、正しい。
そして、重い。
カウンターの上で、
氷がゆっくりと溶ける。
その音が、
やけに長く、残っていた。




