1000年前の絶望、そして初めての痛み
東の国へと向かう街道。
ルナの圧倒的な財力によって手配された、まるで動く高級ホテルのような大型の特注馬車が、夜の闇を静かに進んでいた。
ふかふかのベルベットのソファで、シルバはすっかり寝息を立てている。
ジンは窓の外に流れる夜景をぼんやりと眺めていたが、ふと、向かいの席から熱い視線を感じて振り返った。
「……どうかしましたの、ジン? わたくしの美しさに見惚れてしまいました?」
窓から差し込む青白い月明かりに照らされたルナは、息を呑むほど美しかった。
透き通るような美白の肌は真珠のように輝き、艷やかな金髪のツインテールが夜風にふわりと揺れる。こちらを覗き込むルビーのような赤い瞳には、吸血鬼という高位魔族特有の、人間には到底出せない妖艶な魔性が宿っていた。
少しだけ覗く小さな八重歯が、彼女の可憐な容姿に危険な魅力を添えている。
「いや……ルナって、普段は騒がしいけど、黙ってると本当に綺麗なお姫様なんだなって思ってさ」
ジンが素直にこぼすと、ルナの真っ白な頬がポッと赤く染まった。
「なっ……! と、当然ですわ! わたくしを誰だと思って……っ、ジンは本当に、サラッとそういうことを言いますのね……!」
扇子で口元を隠して照れ隠しをするルナ。さっきまでの魔性のオーラはどこへやら、完全に恋する乙女の反応だ。
コホン、と一つ咳払いをして、ルナは少し真剣なトーンに声を変えた。
「……ジン。先ほど、オーブを集めて『魔王』を倒すと言っていましたわね」
「ああ。元の世界に帰るための、一番確実な方法だからな」
「……魔王は、強いですわよ」
ルナのルビーの瞳が、スッと細められた。その目には、1800年という途方もない時間を生きてきた者だけが持つ、重く暗い記憶が揺らめいていた。
「わたくし、1000年前に一度だけ……当時の魔王の姿を遠目から見たことがありますの。あの時はまだ、勇者と魔族の戦争が激しかった時代でしたけれど」
ルナは自身の胸元をギュッと握りしめた。
「わたくしは吸血鬼の中でも最強クラスの魔力と血の能力を持っていますわ。でも……あの時の魔王が放っていたオーラは、次元が違いましたの。もし真っ向から戦えば、わたくしでも勝てない。一瞬で塵にされる……そう直感させるほどの、絶対的な『絶望』そのものでしたわ」
ジンは息を呑んだ。規格外の強さを誇るルナに、そこまで言わせる存在。
「でも……」
ルナは顔を上げ、ジンの目を真っ直ぐに見つめた。
「今のジンが使う『士気高揚』の力……あれは、生物の限界の理を超えていますわ。おまけに、ジン自身の武器召喚による後方支援もある。もし、あそこで寝ている野良犬のように頼れる前衛があと数人いて、全員にジンの最高のバフがかかれば……勝算は、十分にありますわ」
「本当か!?」
「ええ。わたくしの1800年の勘が、そう告げていますわ」
ルナは誇らしげに胸を張った。自分の言葉でジンがパッと表情を明るくしたのが、純粋に嬉しかったのだ。
「そっか! よかった……魔王を倒せれば、俺、本当に元の世界に帰れるんだな!」
ジンが安堵の笑みを浮かべた、その瞬間だった。
(……え?)
ルナの胸の奥が、鋭い刃物でえぐられたように、ズキリと痛んだ。
ドクン、ドクンと、吸血鬼の心臓が不快な音を立てて早鐘を打つ。
(ジンが、元の世界に……帰る?)
頭ではわかっていたはずだった。彼は異世界から来た人間で、この世界に未練はないのだと。
でも、いざ彼が「帰れる」と嬉しそうに笑う顔を見た瞬間、ルナの心は強烈な拒絶反応を示した。
1800年。退屈で、飢餓に苦しみ、長い長い昼寝で時間を潰すしかなかったモノクロの永遠。
そこに突然現れたのが、ジンだった。
彼の血は、魂が震えるほど美味しかった。でもそれ以上に、怪我をしてまで自分を庇ってくれたあの温かい背中が、優しい笑顔が、ルナの冷たい世界を鮮やかに色付けてくれたのだ。
まだ出会って日が浅い。けれど、吸血鬼の『番』としての本能が、彼を手放すなと叫んでいる。
「……ルナ? どうかしたか? 顔色悪いぞ」
黙り込んでしまったルナを心配し、ジンが身を乗り出して彼女の額に手を伸ばそうとする。
その手を、ルナは両手でギュッと包み込むように握りしめた。
「……っ」
「ルナ?」
「……酷い人ですわ」
俯いたルナの金色の前髪の隙間から、ポタッ、と透明な雫が落ちて、ジンの手の甲を濡らした。
「わたくしに、こんなにも極上の血の味を教えておいて……わたくしの心を、こんなにも乱しておいて……っ。魔王を倒したら、わたくしを置いて、いなくなってしまうつもりですの……?」
震える声。
顔を上げたルナのルビーの瞳は、涙でいっぱいに潤んでいた。
高飛車でわがままなお嬢様の仮面が剥がれ落ち、そこにあったのは、愛する人を失うことを恐れる、ただの等身大の女の子の顔だった。
「ルナ……」
「……許しませんわ。わたくしは、吸血鬼ですのよ。一度噛みついた獲物は、骨の髄までしゃぶり尽くすまで、絶対に逃がしませんわ……」
強がるように言葉を紡ぎながらも、ジンの手を握る彼女の小さな手は、微かに震えていた。
その切実で、痛いほどの独占欲と愛情。
ジンは何も言えず、ただ、自分を強く握りしめる彼女の冷たい手の温もりを、無言で受け止めることしかできなかった。
月明かりの下、進む馬車の中。
魔王討伐という希望の光は、同時に、不老不死の吸血鬼の少女に「別れ」という残酷な未来と、初めての切ない恋の痛みを突きつけていた。
次回更新03/27昼




