第三十三話 鬢曽木
第三十三話 鬢曽木
五月の澄んだ朝。
小谷城の一室には柔らかな香が焚かれ、白い布が清らかに敷かれていた。
すずは白小袖に身を包み、緊張で手を握りしめている。
そこへ、静かに長政が入ってきた。
鎧ではなく、普段より端正な直垂姿。
その姿を見ただけで胸が熱くなる。
「……すず。準備はよいか」
すずは小さくうなずいた。
侍女たちは控えに下がり、長政がすずの正面に座る。
鬢親を務める人間がすずの髪を整える――それは少女から女性へ変わる儀式の象徴だった。
長政がすずに向かって一礼をし、つくばう――いわゆる膝立ちになる。
すずは長政に向かって一礼をした後、碁盤の上に立つ。
長政が櫛をとり、すずの髪にそっと通す。
櫛の先が髪をわずかに引くたび、『殿の手が……』と胸がどくん、と跳ねる。
長政は慎重に、丁寧に、しかし少しぎこちなく髪を整えた。
「どうだ?似合うか?
少し失敗したかもしれないが……」
その言葉にすずは思わず口を開ける。
「だ、大丈夫です! 殿が結ってくださったのですから……それだけで、私は……!」
長政はふっと目を細めた。
「……そう言ってくれると、救われる」
後ろの毛先も少し剃り落とし、碁盤から降りた瞬間――すずは“少女”を終えた。
長政が小さく息をつく。
「……似合う。いや、似合うという言葉では足りぬな……」
その声は深く、どこか熱を帯びていた。
◆
鬢曽木が終わると、すずは華やかな色小袖に着替え、広間の祝宴へ。
人々は「おめでとうございます」と口々に祝い、すずの顔は自然と綻んだ。
酒の代わりに白湯に梅の香りを落としたものを口に含む。
ほんのり甘い香りと、祝宴の熱気で胸がふわっと温かくなり、酔ったような心地になる。
『なんだか……頭が軽い……』
そんなすずを、長政は人混みの向こうから静かに見つめていた。
目が合った瞬間、すずの胸がきゅっとなる。
『殿……』
長政は視線で「こちらへ」と促したが、他の者たちの手前、すずはそっと目をそらすしかなかった。
それでも――その視線の意味は、痛いほど伝わった。
◆
祝宴が続く中、すずは胸の高鳴りを抑えきれず、ひっそりと広間を抜け、外の縁側に出た。
夜風が冷たく、大人の髪が揺れる。
『今日は……ずっと胸がざわざわする……。
殿のせい……だと思う……』
そこへ、足音。
すずの心臓が跳ねた。
「……ここにいたか」
長政だった。
すずは反射的に立ち上がろうとしたが、長政はそっと手を伸ばし、静かに制した。
「よい。座っておれ」
隣に腰を下ろした長政の気配が、夜風よりも近くて温かい。
沈黙。
でも、離れがたい沈黙だった。
「……すず」
「……はい」
「今日は……本当に、美しい」
声が低く、耳の奥で響くように囁かれる。
すずの頬が一気に熱くなる。
長政は続けた。
「鬢親を務めながら思った。
すずは……もう、今までのすずではないのだと」
夜風が止んだように感じる。
「大人になったお前を見て……俺は何度も、目を奪われた」
すずの心臓が跳ねる。
長政の視線は、触れてもいないのに、触れた様に熱を帯びていた。
『殿が……こんなふうに言ってくださるなんて……』
すずが言葉を失っていると、長政がゆっくりと顔を近づけた。
触れない。
でも――髪がかすかに触れるほどの近さ。
「……すず」
それだけで、すずの全身が甘く震えた。
長政は一呼吸だけ間をおき、そして静かに席を立った。
「戻るぞ。冷える」
その声に、すずは胸いっぱいのまま立ち上がった。
◆
自室に戻る道すがら、すずは胸に手を当てていた。
『私……殿に……大人として、見られた……』
その感覚は、今までのどんな甘さより濃く、どんな言葉よりも深かった。
でも――その甘さの影で、城を包み込む空気は確かに変わりつつあった。
宴会の最中、廊下を歩く者たちの足音。
庭を駆ける伝令。
遠くの山から吹く風すら、ざわついているように感じた。
『嵐が……来る……』
すずは震える指先を握った。
戦の前触れ。
姉川へと続く影が、静かに、しかし確かに迫っていた。
すず、ついに鬢曽木をして大人になりました。
準備やらなんやらで結構焦らしましたね(汗)
鬢曽木について作者も結構調べましたが、本編には載せきれないほど複雑な過程が結構あります。
碁盤に立ったり座ったり、いちいち礼をしたり。
すずもさぞや大変だったろうと思います。
長政(鬢親)も長政で大変でしょうね。
他人の鬢を綺麗に剃らないといけないので。
プレッシャーエグいだろうなぁ…。




