第三十一話 二つの準備
第三十一話 二つの準備
金ヶ崎の騒乱が収まったのも束の間、春が近づくと、小谷城の空気にはどこか張り詰めたものが漂い始めた。
◆
最近、武具蔵では武器の点検が続けざまに行われ、城外では若い侍たちが頻繁に訓練をしている。
すずもそれに気づいていた。
「……また、戦が……?」
思わずつぶやくと、長政は軽く首を振った。
「まだ断じて言える時ではない。
だが――この近江は、しばし静かにはならぬだろう。
またすぐに戦が起こるかもしれん」
その言い方は、まるで「避けられぬものが迫っている」と暗に告げているようだった。
お市も横で小さくため息を漏らす。
「信長が、動きますね……。
春の訪れは、雪解けと共に戦の合図のようで」
長政は黙っていたが、その沈黙が何より重かった。
――これは前触れだ。
すずは胸の奥でそう悟った。
金ヶ崎の混乱は“始まり”にすぎず、浅井と織田の溝は深まるばかり。
このままでは、いずれ――もっと大きな戦が起きる。
すずは寒気にも似た予感を覚えた。
◆
そんな緊張が城に漂う中でも、日々の営みは止まらない。
四月が過ぎ、五月に入る頃――お市がふと口にした。
「すず様。もうすぐ鬢曽木ですね。
あともう一月ですから、衣装の用意を始めた方がよいですよ」
すずは驚いて瞬きをした。
「そ、そんな……次の戦の気配があるのに……」
「“成人”は、戦の有無で変わるものではありません。
あなたが浅井の一員としてここに生きている限り、祝うべきことは、きちんと祝うのです」
お市の言葉は、姉のように穏やかで、誇らしげだった。
長政はすずをじっと見つめた後、静かにうなずいた。
「すず。お前が大人の女として歩み出すことは……俺にとっても、大きな喜びだ」
すずは急に胸が熱くなった。
『……私が、ここに居てもいいと思ってくれている……』
長政の声は、去年嫁いできた彼女の成長を静かに祝うような温かさだった。
「鬢曽木の日には、城中の者にも挨拶をする。
少し恥ずかしいかもしれんが、胸を張りなさい」
「……はい」
その返事は、小さくても凛としていた。
◆
初夏の風が少しずつ強くなり、
近江の山々は新緑の気配を見せ始める。
ただ、その風には不穏なざわめきも混じっていた。
城の外では織田方の動きが完全にはつかめず、浅井家中では「また戦になるのでは」と噂が絶えない。
けれどその一方で――すずの鬢曽木の支度がひっそりと整えられていく。
白粉の準備。
新しい小袖の仕立て。
髪を結い直すための櫛や油。
どれも小さなものだが、すずの人生の節目を告げるための大切な品々。
『戦の影がどれほど迫っていても……私は、この城で生きていくんだ』
それは、すず自身の覚悟でもあった。
◆
その夜。
三人が座っていると、長政がふと言った。
「……お前が十六になるとはな」
すずは首を傾げる。
「と、殿?」
「昨日まで十五だと思っていたのに……成長というものは、あっという間だ」
お市は静かに微笑む。
「殿は、娘が成人する父の気持ちなのでしょう。
歳もすず様とは10歳も離れていますし」
「……そうかもしれないな」
長政は小さく笑い、しかしその目には“守りたいものが増えた男”の影が宿っていた。
――すず、お市、子どもたち、家臣、浅井の領民。
そして、迫る戦。
そのすべてを背負って立たねばならない。
すずはその影に気づき、胸がぎゅっと締まるような思いをした。
『……この人を、また戦に送り出すことになるの……?』
次の決戦――姉川。
それはまだ二月も先だが、確かに近づきつつある気配があった。
今回は2つの準備の回でしたね。
ひとつはすずの鬢曽木。
もうひとつは戦。
次の戦は、後に口で、書物で、語り継がれ、日本史の教科書には必ず出てくる大きな戦いです。
なんなら金ヶ崎の戦いよりも有名。
活躍した主な武将は以下の通り。
[浅井家]
遠藤尚経
磯野員昌
[朝倉家]
真柄直隆
[織田家]
前田利家ら馬廻り衆
本多忠勝
ちなみに遠藤さんは以前ちょこっと出て来てますよ。




