第二十九話 帰還なう。
第二十九話 帰還
織田軍は追い詰められながらも、木下秀吉や明智光秀による殿の奮戦やこの界隈の領主・朽木元綱の案内に支えられ、細い山道を死に物狂いで引き返した。
秀吉の軍勢は、追いすがる浅井朝倉の兵を食い止めるため、何度も後退戦を繰り返し――ついには京への撤退に成功した。
追撃に当たった浅井・朝倉勢は、結局、信長の首に一歩届かぬまま戦機を逃す。
浅井長政はその結果に深い苦みを抱えながら、小谷城への帰還の途についた。
◆
城門が開かれ、埃にまみれた鎧姿の長政が馬から降りた瞬間――すずは堪えきれなかった。
「殿っ!」
侍女たちが「あっ」と息を呑むよりも早く、すずは走り出していた。
武家の女として下品である。
夫、ましてや家の当主に飛びつくなど本来許される所作ではない。
けれど、それでも。
ようやく姿を見せた長政のもとへ足が勝手に動いてしまい、裾が乱れようと、他人の目があろうと――すずは迷いなく抱きついた。
「ご無事で……本当に……!」
涙を浮かべるすずを、長政は少し驚いた顔で受け止めたが、やがてそっと背を支え、静かに言った。
「……待たせた。すず」
その声に、すずは一層涙がこぼれた。
お市はすずの姿を見て、わずかに目を細めた。
『あの子は、本当に感情で動く子……でも、それでよいのかもしれませんね』
そんな表情だった。
◆
その夜。
長政が戻った安堵と、家臣たちの配慮もあって、久しぶりにゆっくりする時間が与えられた。
お市は言った。
「戦帰りなのですし……今夜くらい、すず様も一緒でよいでしょう」
もはや以前のような距離はない、優しい声だった。
そして三人は同じ部屋に布団を敷き、川の字になって横になることにした。
長政が中央、その両脇にお市とすず。
火鉢の残り火が赤く揺れ、外にはまだ戦の余韻の風が吹いている。
すずは長政の腕のそばで小さく息をする。
温かい気配に触れられるだけで、胸の緊張がほぐれていくようだった。
「……すず」
長政が囁く。
「すずの声が恋しかった」
急に胸が熱くなり、すずは布団の端をぎゅっと握る。
「……私もです。
殿が……ご無事でよかったです」
隣で、お市がくすりと笑った。
「お二人とも、今夜は静かに休みましょうね。
すず様、あなたも。
……泣きすぎて明日の目が腫れますよ」
お市の声は、すっかり“家族に話す声音”だった。
長政の堅く大きい手が、すずとお市の手をそっと包む。
三人結ばれた不思議な静けさの中で――夜がゆっくりと更けていった。
信長、無事京に帰還。
長政、惜しくも首を逃す。
この時の信長の逸話。
京に一旦避難できた信長は南近江の『千草峠』を越え、岐阜城に帰ろうとしました。
そこに潜伏していたのが、六角氏(今は落ちぶれた浅井の宿敵)に仕える甲賀忍び、『杉谷善住坊』です。
彼は20m離れた岩陰から信長を狙撃しようとしました。
ですが、この時鉄砲は当たらなかったといいます。
ちなみに唯一信長が被弾した戦いは1576年の『天王寺の戦い』です。
この時信長は左足に被弾。
命に別状はなかったものの、左足に痕が残ったようです。




