第二十八話 金ヶ崎の戦い
第二十八話 金ヶ崎の戦い
長政が小谷城を発って数日。
桜の花は散りはじめ、山の風が少し冷たさを戻す。
城に残されたすずは、これまでにない胸騒ぎを覚えていた。
いつもなら、主の外出や出陣で心を乱すことはない。
側室として、武家の女として、それが当たり前だと思っていた。
けれど――
「こんなに心配になるなんて、初めて……」
ふとした拍子に胸が締めつけられるような感覚がよぎる。
茶屋道具を片づけようとしても手が止まり、針仕事をしていても針目がそろわない。
お市にも気付かれたほどだ。
「すず様、顔色がすぐれませんよ。
……殿のことが気にかかるのですね」
やわらかく、どこか姉のように声をかけてくるお市。
以前の冷たさが嘘のようだ。
すずは素直にうなずけなかったが、指先が震えているのを見て、お市はそっと手を重ねた。
「……私も同じ気持ちです。
殿は、強いけれど、無茶をするところがありますから」
その言葉にすずは少しだけ呼吸が楽になった。
それでも不安は消えない。
◆
一方その頃。
越前へ向かった織田軍は、浅井の裏切りを知らずに進軍していた。
だが、朝倉方に味方することを決めた浅井の兵が、背後の山道から急ぎ進み、織田軍の退路へと向かう。
長政は軍勢の先頭に立ち、険しい山の風を受けながら家臣に命じた。
「織田の退き口を断つ。油断はならぬ」
声は静かだが、決意と覚悟がにじむ。
すずに強く言い返した日のことがふと脳裏をよぎる。
『……すずは、あれほど俺を案じていたのか』
胸の奥で、何か小さな痛みが走る。
だが迷いはすぐに消える。
浅井として、父祖の恩義に殉じると決した以上、長政の足は止まらない。
やがて、山間には戦の気配が満ちていく――鬨の声、蹄の音、甲冑が触れ合う金属の響き。
その場の空気は張り詰め、春とは思えぬ厳しさがあった。
長政は馬上から前線を見渡し、短く言い放つ。
「怯むな。浅井はここで退かぬ!」
刀を抜く。
鋭い光が空気を裂いた。
その頃、別働隊の朝倉勢が渓谷を下り、織田の退路はじわじわと脅かされていく。
やがて織田本陣もこの異変を知り、信長は撤退を決意した。
「長政、裏切ったか……!」
金ヶ崎の山中は混乱に包まれ、信長の軍は細い山道を必死に引き返していく。
その逃走を、長政率いる浅井勢が追撃する――だが、どこまでも危険な谷間での戦は、誰の命も保証しない。
長政は険しい岩場の上から織田の撤退路を見下ろし、吹き上げる冷たい風を受けながら、まるで時の流れを止めるように息を呑んだ。
「……すず、城で無事に待っておれ」
誰に聞かせるわけでもなく、それは初めて戦で口にした、“すずのための祈り”だった。
◆
小谷城では、戦況を知らせる早馬が頻繁に出入りし、侍女たちも武家の女も、皆が緊張に包まれていた。
すずは、祈るような気持ちで手を組んでいた。
胸の奥で何度も繰り返す。
『どうか……ご無事で』
戦国の世では、誰かの無事を祈ることすら贅沢だと教わってきた。
運命は読めないし、祈ったところで戦は止まらない。
それでも、すずは祈った。
初めて、こんなにも心が乱れるほどに。
ふと気づくと、頬が濡れていた。
自分でも驚き、そっと涙をぬぐう。
そこへ、お市が優しく声をかける。
「……泣いていいのですよ、すず様」
「泣いてなど……」
否定しようとしたが、言葉は震えてしまう。
お市は小さく首を振った。
「あなたがこの城を、そして殿を大切に思っていること……嬉しく思います」
すずは、はじめてその言葉に救われたような気がした。
信長人生三大危機のひとつともされる金ヶ崎の戦い。
信長は長政をよほど信頼して越前に侵攻したのでしょう。
長政謀反の報が届いた瞬間、信長は動揺を見せたそうです。
そのあと少し経って冷静になり放った言葉が、かの有名な「是非に及ばず(是非もなし)」です。
本能寺の変の際に放った言葉とされますが、初めて口に出したのはこの時だったそうです。
信長は生還することはできるのか!?長政は信長の首を討ち取れるのか!?
次回に続く…。




