第二十五話 羞恥心
第二十五話 羞恥心
夜が白みはじめる頃。
すずは長政の部屋から、そっと襖を閉めた。
『……だ、誰にも見つかりませんように……』
少しはだけた胸元を押さえながら急ぎ足で廊下を進む。
慌てて整えた着物はまだ少し乱れ、髪もところどころほつれている。
そこへ、角を曲がった瞬間——
「……あら、すず様。」
すずは固まった。
背後にお市が立っていた。
産後の体は落ち着いてきた頃だ。
だがすずを見る目は相変わらず鋭い。
「お、お市様……!」
お市は振り返ったすずの全身を一度見て、そして細い眉をぴくりと上げた。
「……今、どこから来られました?」
「え、えっと……あの、その……」
言葉を濁すと、お市は歩み寄り、すずの肩にそっと手を添えて着物の襟を直す。
そして小さくため息。
「すず様。慌てているのは分かりますが……これは、目立ちます。」
「っ……!」
すずの顔が一気に熱くなる。
お市は厳しい目つきのまま、しかし声色は優しい。
「殿のところにおられたのでしょう?」
「……っ、その……」
否定できず、すずは目を伏せる。
お市はすずの手を軽く握った。
「私は、殿の正室。
正室は側室を管理する立場にあります。
だからこそ申し上げますが……」
お市は周囲をちらりと見回し、声をひそめた。
「もう少し、戻る前に身なりを整えてくださいませ。」
「……すみません……」
◆
「すず様。」
お市の声が少し柔らかくなる。
すずは顔を上げた。
お市は微笑んだ。
正室の、穏やかで強い笑み。
「あなたの部屋に戻る前に私の部屋を通りなさい。
髪も着物も、整えて差し上げます。」
「……お市様……ありがとうございます……」
お市はすずの背を押して、自室へと導いた。
「さ、急ぎましょう。殿がすず様を捜しに来る前に。」
「えっ……捜しに……来る……?」
「ええ。あの様子では、十中八九。」
◆
お市の部屋で髪を整えてもらっていると、廊下のほうで足音がした。
すずは顔を上げる。
『この足音……殿!?』
襖の向こうから、低く落ち着いた声がする。
「……市、すずを見なかったか。」
その声に、すずは肩をびくりと震わせた。
お市は扇子で口元を隠しながら、襖を隔てて落ち着いた声を返す。
「まあ、殿。朝からご機嫌に探しものですか?」
「探しもの、というほどではないが……
――起きたらすずが部屋にいなかった。」
『ひ……ひえぇ……!』
すずの様子にお市はくすっと小さく笑い、襖を少し開いた。
「すずさまなら――こちらに。」
長政の視線が中に入り、その黒い瞳がすずを捉えた。
「……すず。」
言葉は短いのに、昨夜の余韻を全部思い出させるような、あまりに甘い声。
すずは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……」
長政はすずに歩み寄り、そっと肩に手を置いた。
「探した。」
その一言で、すずは胸がいっぱいになる。
お市は扇をぱん、と閉じ、すずの肩を軽く押し出した。
「ほら、殿が心配しておられたのです。早く戻って差し上げなさい。」
長政はそのまま、すずを庇うように連れて行った。
◆
その日から――すずは長政のことを、どうしても直視できなくなった。
部屋の前で声がするたびに逃げ、廊下で影が見えると反対方向へ曲がり、文を届けに来た家臣の気配にもおびえた。
しかし、避けているのは当然、長政にバレる。
三日目の夕刻。
すずの前に、気配もなく長政が現れた。
「……すず。」
その声だけで、すずは肩を震わせた。
「と、殿……っ」
長政は腕を組み、珍しく不満を隠さずに言う。
「……なぜ、俺を避ける。」
「さ、避けてなど……」
「嘘だ。」
長政は近づいてきて、すずの目線の高さまで少し身を屈めた。
「俺が近づくと必ず逃げる。
声をかければ返事が震える。
三日前までは……あれほど素直だったのに。」
長政は小さく息を吐いた。
「……すずが嫌がっているわけではないと知っていれば、
こんなにも気にしなくて済むのだが。……すず。」
低い声で名前を呼ばれ、すずの心臓は跳ねる。
「俺は、避けられるのが嫌いだ。
言葉にできないなら、それでもよい。
だが……俺の前から逃げないでほしい。」
すずは胸に手を当て、ようやく絞り出すように答えた。
「……逃げてたのではなくて……恥ずかしかっただけで……」
長政は一瞬、目を瞬かせ、それからふっと微笑んだ。
「恥ずかしいなら、恥ずかしいと言えばよい。
避けられるより、ずっと良い。」
その笑みに、すずは一気に肩の力が抜けた。
「……はい。」
長政の表情が、どこか満足そうに柔らいだ。
そして小さく、すずの頭を撫でた。
「また逃げたら……捕まえに行く。」
その言葉は、独占欲と優しさが混ざったような響きだった。
雑談にはなりますが、浅井長政は身長が180cm以上と豪快な割に風流です。
その名残なのか、小谷城は春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は白雪に包まれます。
季節によって城(というか山?)も表情を変える小谷城。
450年以上前に長政が遺したもののひとつなのでしょうね。




