第二十六話 桃の節句
第二十六話 桃の節句
北近江にもようやく春の気が差し込み、朝の空気がやわらかくなってきた三月。
すずは几帳の前で小さく安堵の息をついた。
『……また、月のものが来た』
量は少ない。
けれど、先月よりも間隔は安定しはじめている。
『乱れてた頃より、落ち着いてきた……のかな』
そんなことを思っていたとき。
障子がすっと開き、長政が入ってきた。
「すず。具合はどうだ。」
驚いて振り向くすずに、長政はいつもより柔らかい声音で歩み寄る。
「侍女が、おまえの顔色が優れぬと言っていた。」
「ご心配をおかけして……でも、今日は大丈夫です。」
長政の眉がふっと和らいだ。
「……そうか。
このところ、ようやく体が戻ってきたようだな。」
「はい。多少ですが……」
言いよどむすずの頬が少し赤くなる。
長政に対して“月のもの”の話題は恥ずかしすぎる。
だが長政は、すずの恥じらいに気づいていながら、あえて何も言わず、ただそっと肩に手を置いた。
「無理をするな。
もしまた乱れたら、すぐ言え。」
丹念な眼差し。
その優しさに胸が熱くなって、すずは小さくうなずいた。
◆
三月三日。
小谷城では小さな姫たちのお祓いをする日を迎えていた。
桃の節句、といえばひな祭りを連想する。
しかしこの時代は桃の節句といえば『姫たちのお祓い』という認識なのである。
現代のようなひな祭りはもう少し後……平和になった江戸時代の大奥から誕生したものである。
すずは今回祈祷を受ける二人を見つめた。
茶々はまだ一歳半だが、歩くたびにふらふらと揺れる姿が愛らしい。
初は生まれてまだ数ヶ月。
それでも、泣き声も力強く、手足をよく動かす。
すずは侍女とともに、二人の姫のそばに控えていた。
「すず〜」
茶々がすずの袖を引っ張り、巫女を指差す。
「茶々様。
あれはお巫女様、ですよ」
茶々はぱちぱちと拍手する。
初も、侍女の腕の中で小さく手を動かしている。
『……茶々様も初様も、こんなに健やかに』
その様子を少し離れたところから見ていた長政は、ふとすずに目を向ける。
「すず。」
「は、はい」
「茶々も初も……おまえがよく気を配ってくれている。」
「そんな、私など……」
「誇らしい。」
短い一言なのに、胸に温かいものが広がっていく。
◆
お祓いの後。
すずが片づけていると、背後から長政の気配がした。
「すず。……少しいいか。」
振り向くと、長政が珍しく人払いをしていた。
すずは緊張しつつ歩み寄る。
「今日は人が多くて、ゆっくり話せなかったな。」
「い、いえ。私は十分に……」
長政はすずの前髪にかかる雪洞の影をそっと払うように指を伸ばし、触れる寸前で止めた。
「……桃の節句は、姫たちの祓いの日だ。
本来ならば、おまえにもしてやりたかった。」
「わ、私も……?」
「十五から十六へ。
髪も美しく結い直し、成人として迎える春だ。」
その声音は静かで、けれど深く甘い。
「だが、祓いは……少し先にしよう。」
「え……?」
「おまえの体が完全に戻るのを待つ。
焦るつもりはない。」
『……殿は、いつも私のことを見てくれている』
「すず。
おまえが無理をして倒れるほうが、私は耐えられぬ。」
思わず目を伏せると、長政はわずかに息をのんだ。
「……そんな顔をされると、誰にも見せたくなくなるな。」
その一言に、すずの胸は跳ねた。
独占欲を隠すように微笑むけれど、瞳の奥はまっすぐで、ひどく優しい。
「すず。」
「……はい。」
「私は、おまえを手放す気はない。
何があっても。」
すずは胸の奥が温かくなり、小さく息を吸い込んだ。
「……ありがとうございます。」
長政は満足げにうなずき、
すずの肩にそっと手を添えた。
「桃の節句は姫たちを祓い、健康を願う日だ。
だが……すずも、私にとっては同じくらいの存在だ。」
淡い春の光が差し込む中、その言葉は、春風よりもやさしく胸に染みた。
本編でも触れましたが、桃の節句について軽く語ろうと思います。
皆さんが想像する雛人形は江戸時代初期の大奥から誕生しました。
(大奥とはなんぞや?と思う方はぜひググってください)
女の子の成長を祝う日、というのも大奥が発祥なら納得がいきますね。
それ以前はどんなことをしていたかというと、平安時代は自分に見立てた紙人形を川に流し、厄を払ったといいます。
戦国時代には多分このような文化は(恐らく)ないものの、お祓いなどはしていたんじゃないかと思います。
戦国時代、女の子は跡継ぎを産む重要な存在。
現代はこのような考えはあまり一般的ではありませんが、女の子が健やかに育つことへの願いは変わらないのですね。




