第二十三話 初
第二十三話 初
産後の混雑が落ち着き、雪の降りしきる城中にようやく静けさが戻った夕刻。
すずは、お市のいる産後の部屋で布を畳んでいた。
湯気の立つ薬湯の香りが、冷えた空気をほんのり温めている。
そこへ、長政が静かに姿を見せた。
出産の時以外は産屋に近寄れなかったが、今日は名付けの儀があるため、特別だった。
「……すず。」
呼ばれて振り返ると、長政の表情はどこか柔らかい。
「赤子の名が、決まった。」
すずは思わず手を止め、背筋を伸ばした。
「お名前は……」
長政は深く息を吸い、告げる。
「『御那』。
広い心と優美な風格を持ち、周りに安心感や温かさを与える娘であって欲しい、という願いを込めた名だ。
だがな……」
長政は少し苦笑した。
「名前を呼ぶときに『なつ』では、お市の側に仕える侍女と名が重なる。
さすがに紛らわしいから――」
「から……?」
すずが問い返すと、長政は穏やかに続けた。
「『初』と呼ぶことにした」
すずの胸に温かいものがふっと灯る。
「わぁ……素敵なお名前ですね!」
「うん。お市も気に入ってくれた」
長政のそのひと言に、すずはほっとした。
お市は気難しく見えるところがある。
特に自分に対しては――嫁いできてしばらくは、冷たい視線を向けられることも多かった。
それが今は、すずが物を運べば「助かるわ」と微笑んでくれる日もある。
赤子を抱く腕が震えれば、軽く顎を動かして「この布を敷いて」と頼ってくることも増えた。
そう思い出すだけで、胸が静かにあたたまる。
◆
その後、お市は産後の疲れが悪化して横になっていたが、すずの気配に気づき、薄く目を開けた。
「すず……。
殿から、名前のことは聞きましたか?」
「はい。『初』様と……伺いました。」
お市は枕から視線だけを動かし、そっと赤子を見やった。
「ええ。
本名に音が近い名前で呼ぶことにしたの。
そう思うと、呼ぶたびに健やかに育ちそうでしょう?」
「……はい。とても、素敵です。」
すずがうなずくと、お市の長く美しいまつげがゆっくりと揺れた。
かつての、鋭い視線はそこになかった。
「実は……最初、すず様のこと、どう扱えばよいのか分からなかったんです」
突然の言葉に、すずは息をのむ。
お市は続ける。
「殿の側室でありながら、年も十五と幼くて。頼らせてやるべきか、距離を置くべきか……迷ったの」
淡い灯りの中、すずは静かに頭を垂れた。
「ですが――」
お市は赤子の頬を撫でる。
「この出産を通して、あなたがいかに誠実に動いてくれたか、よく分かりました。
布を渡してくれた手も、湯を替えてくれた足も……すべてが助けになった」
「……もったいないお言葉です」
本当にそう思った。
「これからも……万福丸、茶々、『初』のこと、よろしくお願いしますね」
その声音は、もう冷たくなかった。
むしろ――まるで姉が妹を頼るような、柔らかな響きさえあった。
すずは深々と頭を下げ、小さく答える。
「はい……心を尽くして、お仕えいたします」
◆
産屋を出たすずに、長政が声をかけた。
「……市とは、うまくやれているようだな」
「はい。あの……以前より、ずっと。
お気遣い、ありがとうございます」
長政は軽く目を細めた。
「すずの働きが、市の心をほどいているのだ。
胸を張れ」
すずの頬が、冬の夜気よりも熱くなる。
「赤子――『初』も、すずを慕うように育つだろう」
「……わ、私など……」
「いや」
静かに、しかし揺るぎない声音。
「すずだからこそ、あの子らは安心できる。
これからも頼むな」
すずは、思わず深く頭を垂れた。
胸に灯った温もりは、外の雪では消せないほど強かった。
初のように、複数の名前が伝わる姫もいます。
例えばお市は、『秀子(恐らく織田信秀の子という意味)』という名も伝わっています。
茶々には『菊子』、男性にはなりますが、万寿丸(本作では取り上げないが、長政の次男、庶子)には『万菊丸』という名前が残っています。
いや、どんだけ菊好きやねん笑!!




