第十八話 努力の陰で
第十八話 努力の陰で
十一月。
北近江には早くも冬の気配が忍び寄り、朝の空気は白く曇るほど冷たい。
その冷え込みとは反対に、浅井家の空気はひりついたものが漂っていた。
――お市の機嫌が、明らかに落ちている。
十月に、長政がすずを政務の補佐として正式に側へ置いたこと。
それが静かに、しかし確実に正室の心に影を落としたのだった。
◆
ある朝。
すずは部屋で準備を整え、政務へ向かおうとしていた。
廊下に出ると、お市が侍女を従えて歩いてくるところだった。
すずは慌てて膝をつき、深く頭を下げた。
「お市様……おはようございます」
だが、お市はすずの横を通り過ぎる瞬間、まっすぐ前だけを見つめたまま、視線ひとつ与えなかった。
その冷たさは、触れれば凍るようで。
すずは胸がひゅっと縮む。
『……また、怒らせてしまったのだろうか』
十月の一件以来、お市はすずにほとんど声をかけない。
必要な指示も侍女を通じて伝え、すずが近くにいるときは視線すら寄こさなくなった。
それでも、すずは決して逆らうことはできない。
彼女は正室であり、浅井家の御台なのだ。
すずは小さく息を吸い、書院へ向かった。
◆
書院に入ると、すずはいつものように文箱を胸の前に置いて座る。
十一月の初めは、領内での今年の収穫高をまとめる重要な時期。
文書は多く、記録すべき数字も複雑だった。
「すず、これを」
長政が差し出す新しい報告書。
すずは両手で丁寧に受け取り、目を走らせた。
数ヶ月前なら、内容を理解するのにも時間がかかった。
だが、今のすずは違う。
「……こちらの郷は、昨年より二割ほど収穫が落ちております。
水害の影響が残っているようです」
静かにまとまった声で報告すると、
長政は深くうなずいた。
「うむ。では、この村には早めに冬支度の布と米を回せるよう、案をまとめよ」
「はい、殿」
家臣のひとりが思わず感嘆の声を漏らす。
「すず殿は、覚えが早い……」
「文書の扱いもたいしたものだ」
その言葉に、すずは恥ずかしくなり、思わず視線を伏せる。
けれど長政だけは、誇らしげに目を細めていた。
「すずの働きは、浅井家の助けとなっている。
胸を張れ」
その声音は他の誰に聞かせるでもなく、すずただひとりに向けられたもの。
胸がじんと熱くなる。
◆
政務を終え、すずが廊下を急いでいると、お市付きの侍女に呼び止められた。
「すず様。
お市様がお呼びです」
「……お市様が?」
心臓が跳ねる。
お市の機嫌の悪さは身に染みて分かっていた。
何を言われるのだろうと足がすくむ。
「すぐに参れ、とのことです」
連れていかれたのは奥御殿、お市の居室の前。
すずが入ると、お市は座卓の前で香を焚き、じっと前を見つめていた。
その横顔は美しく、そして厳しい。
「……お呼びでしょうか。お市様」
すずが深く膝をつくと、お市はゆっくりと顔を向けた。
目は笑っていない。
「すず。あなた、殿の御 ご政務の補佐をしているそうね」
「は、はい……殿のご命令で」
「殿のご命令……殿のご命令であれば、逆らえないですからね」
その声色には冷えた刃のようなものがあった。
「……その役目、誇らしいですか?」
「い、いえ……わ、私なんかが……」
「“私なんかが”と言いながら、殿のそばに座るのですね」
すずの胸が固くなる。
「覚えておきなさい、すず様。
殿の隣に立つのは、正室である私。
殿の顔を立てるのも、殿の子を産むのも、私」
『そんな……そんなつもりじゃ……』
だが、すずは何も言えなかった。
お市はすずをじっと見据えたまま、
低く、静かに告げた。
「あなたは……身の程を間違えないことね」
◆
その日の夕刻。
すずがひっそりと自室へ戻ると、
長政が戸の前で待っていた。
「すず」
「あ、あの……殿……」
「顔色が悪い。
何があった」
すずは慌てて首を振る。
「な、なんでもございません」
「嘘だ」
低い声だった。
叱るのではなく、心配が滲んでいる。
すずの肩にそっと手が置かれ、逃げ場を失う。
「誰に、何を言われた」
その一言で胸がいっぱいになり、
すずはこらえきれずに小さく話した。
「……お市様に…… “身の程を間違えるな”と……」
長政の目が静かに細められた。
怒っている。
すずのために。
「……そうか。そんな言葉を、すずに言ったのか」
「わ、私が……殿のおそばにいるのが……いけないのでしょうか」
「すず」
長政は、迷いもためらいもなく言った。
「すずのせいではない。
悪いのは、状況だ」
それから、ほんの一拍の間があり――
「そして、言葉を荒くした市もだ」
きっぱりとした声音だった。
「すずは良く働いている。
政でも、家のためにも、そなたは必要だ。
すずの居場所を奪わせるつもりはない」
すずの胸に熱いものがこみ上げた。
殿は、いつも支えてくれる。
守ってくれる。
それがどれほど心強いか、言葉にはできなかった。
◆
「このままにしておくわけにはいかぬ。
市には、俺から言う」
「そ、そんな……!
お市様をお責めにならないでください……っ」
すずが思わず手を伸ばすと、
長政はその手を軽く包み、静かに首を振った。
「すず。お前が気に病むことではない」
ゆっくりと、すずの不安がほどけていくような声。
「言うべきことは、家の主である俺が言う。
市にも、礼を失うことは許さぬ」
それは、すずを守ると同時に、家を束ねる主の覚悟そのものだった。
◆
長政はすずを部屋に残し、そのままお市のもとへ向かった。
扉が閉じる直前、すずはその背中に向かって小さく祈るように頭を下げた。
『……殿……』
しんと冷えた十一月の空気の中、扉の向こうからは、お市の強い声が一度だけ聞こえた。
そして――その声を押し返すように、長政の落ち着いた、揺るがない声が続いた。
すずには内容までは聞こえない。
けれど、“自分のために言ってくれている”。
それが分かるだけで胸が震えた。
◆
しばらくして扉が静かに開く。
長政が入ってきた。
表情は変わらず穏やかだが、どこか断固とした空気があった。
「すず」
「……殿……」
「市には、俺から話しておいた。
そなたが責められることは、今後はない」
その言葉は短いが、中に含まれた力強さは揺るぎない。
すずは深く頭を下げた。
「ありがとうございます……
殿のおかげです」
「礼はいらない。
すずを守るのは、俺の務めだ」
十一月の風が廊下をすり抜けていく。
冷たい風の中で、長政の声だけがすずの心に暖かく灯りを落とした。
実は作者、何回か陰湿な嫌がらせにあったことがあります。
そんなときに、励ましてくれる長政みたいな存在がいたらなぁ……と思います。
普通に今でもモチベ上げに励まして欲しいくらいです。




