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第十八話 努力の陰で

第十八話 努力の陰で

十一月。

 北近江には早くも冬の気配が忍び寄り、朝の空気は白く曇るほど冷たい。

 その冷え込みとは反対に、浅井家の空気はひりついたものが漂っていた。

 ――お市の機嫌が、明らかに落ちている。

 十月に、長政がすずを政務の補佐として正式に側へ置いたこと。

 それが静かに、しかし確実に正室の心に影を落としたのだった。

 

 

 ある朝。

 すずは部屋で準備を整え、政務へ向かおうとしていた。

 廊下に出ると、お市が侍女を従えて歩いてくるところだった。

 すずは慌てて膝をつき、深く頭を下げた。

「お市様……おはようございます」

 だが、お市はすずの横を通り過ぎる瞬間、まっすぐ前だけを見つめたまま、視線ひとつ与えなかった。

 その冷たさは、触れれば凍るようで。

 すずは胸がひゅっと縮む。

『……また、怒らせてしまったのだろうか』

 十月の一件以来、お市はすずにほとんど声をかけない。

 必要な指示も侍女を通じて伝え、すずが近くにいるときは視線すら寄こさなくなった。

 それでも、すずは決して逆らうことはできない。

 彼女は正室であり、浅井家の御台なのだ。

 すずは小さく息を吸い、書院へ向かった。

 

 

 書院に入ると、すずはいつものように文箱を胸の前に置いて座る。

 十一月の初めは、領内での今年の収穫高をまとめる重要な時期。

 文書は多く、記録すべき数字も複雑だった。

「すず、これを」

 長政が差し出す新しい報告書。

 すずは両手で丁寧に受け取り、目を走らせた。

 数ヶ月前なら、内容を理解するのにも時間がかかった。

 だが、今のすずは違う。

「……こちらの郷は、昨年より二割ほど収穫が落ちております。

 水害の影響が残っているようです」

 静かにまとまった声で報告すると、

長政は深くうなずいた。

「うむ。では、この村には早めに冬支度の布と米を回せるよう、案をまとめよ」

「はい、殿」

 家臣のひとりが思わず感嘆の声を漏らす。

「すず殿は、覚えが早い……」

「文書の扱いもたいしたものだ」

 その言葉に、すずは恥ずかしくなり、思わず視線を伏せる。

 けれど長政だけは、誇らしげに目を細めていた。

「すずの働きは、浅井家の助けとなっている。

 胸を張れ」

 その声音は他の誰に聞かせるでもなく、すずただひとりに向けられたもの。

 胸がじんと熱くなる。

 

 

 政務を終え、すずが廊下を急いでいると、お市付きの侍女に呼び止められた。

「すず様。

 お市様がお呼びです」

「……お市様が?」

 心臓が跳ねる。

 お市の機嫌の悪さは身に染みて分かっていた。

 何を言われるのだろうと足がすくむ。

「すぐに参れ、とのことです」

 連れていかれたのは奥御殿、お市の居室の前。

 すずが入ると、お市は座卓の前で香を焚き、じっと前を見つめていた。

 その横顔は美しく、そして厳しい。

「……お呼びでしょうか。お市様」

 すずが深く膝をつくと、お市はゆっくりと顔を向けた。

 目は笑っていない。

「すず。あなた、殿の御 ご政務の補佐をしているそうね」

「は、はい……殿のご命令で」

「殿のご命令……殿のご命令であれば、逆らえないですからね」

 その声色には冷えた刃のようなものがあった。

「……その役目、誇らしいですか?」

「い、いえ……わ、私なんかが……」

「“私なんかが”と言いながら、殿のそばに座るのですね」

 すずの胸が固くなる。

「覚えておきなさい、すず様。

 殿の隣に立つのは、正室である私。

 殿の顔を立てるのも、殿の子を産むのも、私」

『そんな……そんなつもりじゃ……』

 だが、すずは何も言えなかった。

 お市はすずをじっと見据えたまま、

低く、静かに告げた。

「あなたは……身の程を間違えないことね」

 

 

 その日の夕刻。

 すずがひっそりと自室へ戻ると、

長政が戸の前で待っていた。

「すず」

「あ、あの……殿……」

「顔色が悪い。

 何があった」

 すずは慌てて首を振る。

「な、なんでもございません」

「嘘だ」

 低い声だった。

 叱るのではなく、心配が滲んでいる。

 すずの肩にそっと手が置かれ、逃げ場を失う。

「誰に、何を言われた」

 その一言で胸がいっぱいになり、

すずはこらえきれずに小さく話した。

「……お市様に…… “身の程を間違えるな”と……」

 長政の目が静かに細められた。

 怒っている。

 すずのために。

「……そうか。そんな言葉を、すずに言ったのか」

「わ、私が……殿のおそばにいるのが……いけないのでしょうか」

「すず」

 長政は、迷いもためらいもなく言った。

「すずのせいではない。

 悪いのは、状況だ」

 それから、ほんの一拍の間があり――

「そして、言葉を荒くした市もだ」

 きっぱりとした声音だった。

「すずは良く働いている。

 政でも、家のためにも、そなたは必要だ。

 すずの居場所を奪わせるつもりはない」

 すずの胸に熱いものがこみ上げた。

 殿は、いつも支えてくれる。

 守ってくれる。

 それがどれほど心強いか、言葉にはできなかった。

 

 

「このままにしておくわけにはいかぬ。

 市には、俺から言う」

「そ、そんな……!

 お市様をお責めにならないでください……っ」

 すずが思わず手を伸ばすと、

長政はその手を軽く包み、静かに首を振った。

「すず。お前が気に病むことではない」

 ゆっくりと、すずの不安がほどけていくような声。

「言うべきことは、家の主である俺が言う。

 市にも、礼を失うことは許さぬ」

 それは、すずを守ると同時に、家を束ねる主の覚悟そのものだった。

 

 

 長政はすずを部屋に残し、そのままお市のもとへ向かった。

 扉が閉じる直前、すずはその背中に向かって小さく祈るように頭を下げた。

『……殿……』

 しんと冷えた十一月の空気の中、扉の向こうからは、お市の強い声が一度だけ聞こえた。

 そして――その声を押し返すように、長政の落ち着いた、揺るがない声が続いた。

 すずには内容までは聞こえない。

 けれど、“自分のために言ってくれている”。

 それが分かるだけで胸が震えた。

 

 

 しばらくして扉が静かに開く。

 長政が入ってきた。

 表情は変わらず穏やかだが、どこか断固とした空気があった。

「すず」

「……殿……」

「市には、俺から話しておいた。

 そなたが責められることは、今後はない」

 その言葉は短いが、中に含まれた力強さは揺るぎない。

 すずは深く頭を下げた。

「ありがとうございます……

 殿のおかげです」

「礼はいらない。

 すずを守るのは、俺の務めだ」

 十一月の風が廊下をすり抜けていく。

 冷たい風の中で、長政の声だけがすずの心に暖かく灯りを落とした。

実は作者、何回か陰湿な嫌がらせにあったことがあります。

そんなときに、励ましてくれる長政みたいな存在がいたらなぁ……と思います。

普通に今でもモチベ上げに励まして欲しいくらいです。

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