第十七話 殿の補佐
第十七話 殿の補佐
十月に入り、山々の端が赤く染まりはじめた。
朝の風は少し冷たく、城下には秋祭りの準備の声が響く。
そんな季節の移り変わりの中で、浅井家ではひとつの動きが静かに始まっていた。
――長政が、すずを「政務の補佐役」として正式に側へ置こうとしている。
もともと、すずは側室として家事を担当し家を支えていたが、九月からの月経不順と心労で体調を崩したことから家事は侍女たちに全面任せていた。
そして、政務でのすずの働きを見た長政は、“すずは思っている以上に使える”と感じ始めていた。
◆
ある朝、すずは突然、書院へ呼び出された。
「すず、参れ」
長政の声は柔らかいが、どこか決意を含んでいるように聞こえた。
書院に入ると、長政は机に広げた文書の上に細長い桐箱を置いていた。
「すず。お前に話がある」
「は、はい……」
緊張で小さく背を伸ばしたすずの前で、長政は桐箱の紐をほどく。
中から出てきたのは、淡い紅を差した細身の“文箱”。
側室や女房が文事を任される際に用いるもので、名入りはされていないが、装飾は質が良く、明らかに特別だった。
「これを、すずに持たせる」
「わ、私に……ですか?」
「うむ。
今日より、すずを政務の文書整理、並びに記録役として置く」
あまりのことに息を飲む。
「そ、それは……お市様が……」
「市は、今は身の上を優先すべき立場だ。
負担をかけるのは得策ではない」
長政の口振りは揺らぎがない。
すずが何か言おうとすると、彼はさらに言葉を重ねた。
「すず。
お前の手際は良い。
何より、すずは周りを和ませる。
浅井家にとって害ではなく、利となる存在だ」
政治の言葉なのに、すずの胸にはあたたかい灯が落ちるようだった。
◆
長政は文箱をすずの前に置くと、
静かにすずの肩へ手を添えた。
力強くも、優しい手。
「これを持つということは、すずが俺の政に正式に関わるという意味だ」
「殿……」
「すずの身には、いらない視線も増えるだろう。
だが安心しろ。すずを軽んじる者は、俺が必ず守る」
その言葉は誓いというよりも、自然に口からこぼれる確信のようだった。
すずは、文箱にそっと触れる。
――自分が補佐としてどう扱われるのか。
――お市様が、これをどう受け止めるのか。
不安がないわけではない。
それでも、殿が言った“守る”の一言が、すずを支えていた。
◆
そしてその日の政務。
長政が高座に着くと同時に、すずは控えめな位置に正座し、文箱を自分の前に置いた。
家臣たちの視線が一斉に集まる。
だが――その中に嘲りは少なかった。
むしろ、政務の日に長政のそばで文書を正確に捌いた“あの日のすず”を覚えている者たちが、自然に受け入れている空気すらあった。
「すず、これを」
長政が差し出した指示状を、すずは両手で受ける。
「はっ……はい」
緊張しながらも、手は震えない。
『殿が、見てくださっているから……』
すると、長政がわずかに目を細めた。
家臣たちには気付かれないほどの、小さな微笑。
その何気ない表情に、すずの胸は静かに熱を帯びた。
◆
政務が終わったあと、すずは廊下で足を止めた。
――お市の部屋の戸が、少しだけ開いている。
その隙間から、明らかに“すずを見ていた”とわかる視線がすっと消えた。
(……お市様……)
明確な言葉はない。
けれど、今日の政務にすずが正式に出たことはお市の耳にも確実に入っているだろう。
胸の奥がざわりと揺れる。
そこへ、背後から長政の声。
「すず。下がってよい」
すずは振り向くと、長政が立っていた。
「……殿。お市様が……」
「分かっている」
長政は短く答え、
まっすぐにお市の部屋の方へ歩き出した。
「すず。お前が気にする必要はない。
この件は、俺がきちんと話す」
静かだが、はっきりとした声。
その背中には、すずを“公的に”側へ置くと決めた者の覚悟があった。
◆
長政が声を掛けても、お市はしばらく返事をしなかった。
ようやく「お入りください」と聞こえ、長政は中へ。
すずには内容は聞こえない。
だが――扉の向こうから、お市の不機嫌な声が短く、刺すように漏れた。
『……怒ってる。お市様、怒ってる』
胸がきゅっと縮む。
けれどその声のあとで、長政の低く落ち着いた声が返り、それ以上の言い争いは聞こえなくなった。
しばらくして扉が開き、長政はすずの前に戻ってきた。
「すず」
「は、はい……」
「心配するな。
すずの働きは家のためになる。
俺がそう判断した」
その一言が、全ての不安を静かに包んだ。
すずは頭を下げた。
「……ありがとうございます」
秋の冷たい風が廊下を抜ける中、長政の言葉だけはあたたかかった。
すずは目と頭がいいです。
情報処理能力に優れていて、指示がよく通ります。
まだ嫁いでいない頃、叔父(則實)の鍛冶場で刀の製造過程や特徴を覚えているときに自然に身につきました。
現代社会の会社で重宝されるような人材です。
羨ましいです。




