第十六話 手伝い
第十六話 手伝い
九月も深まり、朝晩はすっかり肌寒くなってきた。
お市は身重のため、ここ数日は座敷に出ることも減っていた。
今日も体調が優れないようで、政務の席には出られないらしい。
『……お市様が居られない日は、なんだか空気が違う』
そんなことを思いながら、すずは静かに自室で針仕事をしていた。
そこに、侍女の桔梗が現れた。
「姫様。殿がお呼びでございます」
「私を……?」
胸が跳ねた。
政務中に呼ばれることなど滅多にない。
緊張しながら向かうと、政務の間は既に家臣たちが集まり、長政は中心の席で書状を読んでいた。
「すず、こちらへ」
長政はすずを見ると、自然な仕草で手を差し向けた。
家臣たちの視線が一斉に集まり、胸がざわつく。
(どうしよう……皆さんが見てる……)
けれど長政はそんなことお構いなしに、すずの横を空けて、静かに言った。
「市が休んでいるゆえ、今日の文書の受け渡しはすずに頼みたい」
「わ、私が……?」
「すずの手は丁寧だ。安心して任せられる」
長政がそう言うと、家臣たちは一瞬驚き、すぐに控えめな頷きを返した。
不満の気配よりも、「すず様は殿によほど信頼されているのだな」という視線のほうが多い気がした。
そのことが、胸をくすぐった。
◆
長政はすずの前に書状を数枚並べ、必要なものを順に家臣へ渡すよう指示した。
けれど慣れない作業で、緊張のせいか手元が震える。
「すず」
そっと、長政の手がすずの指に重なった。
驚くほど静かな動作。
「ここを折る。……そう」
長政の声は人目があるのに優しく、まるで二人きりのときのように落ち着いていた。
家臣たちの前なのに――こんなにも自然に触れてくる長政に、すずは胸が息苦しくなるほど熱くなる。
「すずの手は細いからな。無理をするな」
「あ、あの……殿、皆さまが見ておられます……」
「構わん。
すずが手を震わせているほうが、よほど気になる」
耳元ではなく、でもすずにだけ届くくらいの低い声。
その声音に、すずの心臓が跳ねる。
◆
仕事が進むにつれて、家臣たちがすずを見る目が変わっていくのを感じた。
実際、すずは目と物覚えがよく利き、大抵のことは少しの説明で覚えてしまう。
家臣たちもその物覚えと仕事っぷりに感心したようだ。
『……殿は、本当に私を傍に置くつもりなんだ…。』
そんな実感が静かに胸へ落ちてくる。
そして、すずが書状を渡しに立ち上がろうとしたとき――
着物の裾を軽く踏んでしまい、よろけた。
「すず」
長政が素早く腕を伸ばし、重心が傾いたすずの体を支えた。
その動きには迷いもなく、まるですずの転び癖を知っているかのようだった。
「怪我はないな」
人前なのに、声がやわらかい。
その優しさが、余計に胸を揺らした。
◆
政務が終わり、家臣たちが引いたあと。
長政は机に向かうのではなく、すずのほうへ寄ってきた。
「すず」
「は、はいっ……!」
「今日の働き、見事だった」
長政はすずの前に立ち、そっと背に手を添えて座らせた。
「緊張しただろう。
だが、すずが居ると場が和らぐ」
「私、そんな……」
「自覚がないのも、すずらしい」
長政はすずの肩にかかる髪を軽く払った。
秋の光が差しこみ、影が揺れる。
「市には政務では敵わんが……すずには、“すずにしかできぬ支え方”がある」
「私に……しかできない……?」
「ああ」
長政は私の手を取った。
その手つきは、もう隠そうとしていなかった。
「すずが居るだけで、俺の心は落ち着く。
子を産むことでも、立場でもなく――すずという存在そのものを、俺は求めている」
胸の奥が、ぽうっと灯るように熱くなる。
長政の手はあたたかく、政務中とは違う静けさをもってすずの手を包んだ。
「……殿」
名前を呼ぶだけで、声が震える。
「すず。
これからも、そばにいてくれ」
「はい……」
返事は自然にこぼれていた。
秋の光と静かな風の中、
すずは、長政の求めているものが“すずという人間そのもの”なのだと初めてはっきり感じたのだった。
戦国時代の妻は大体、裁縫や生花などを嗜んだりしました。
中には武芸をする方もいたのだとか。
ちなみに今回のように夫の仕事を手伝う場合もありました。




