第十五話 変化
第十五話 変化
九月に入った。
朝晩の風は涼しく、空の色もどこか高く感じる頃。
けれど――
すずの胸の内は、秋の静かな気配とは裏腹に、ざわついていた。
(……来ない)
すずは血の付かなかった布を見つめて確信した。
毎月決まって訪れていた“月のもの”が、今月はどうしても来ない。
日にちを指折り数えれば数えるほど、不安が膨らんでいく。
長政の前では悟られまいと努めていたけれど、
そんな細工は通じる相手ではなかった。
「すず。どうした」
書院で帳面を整えていたとき、長政が声をかけた。
顔を上げると、その瞳はすずの些細な変化すら見逃さない。
「……いえ、なんでも……」
「隠すな」
その一言で、胸の内が揺れた。
「……その…つ……月のものが、来ないんです」
言うと、長政の表情が一瞬だけ動いた。
驚きか、緊張か……判断できないほど繊細な変化。
次の瞬間には、落ち着いた声で命じられた。
「医者を呼ぶ」
「っ…で…でも殿! そんな、大事にすることでは……」
「すずの身に“万が一”があってからでは遅い」
きっぱりした声音。
わたしはそれ以上、何も言えなかった。
◆
座敷の隅で膝を揃えて座ると、医者が丁寧に口を開いた。
「懐妊ではございません」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
期待していたわけでは……ない。
けれど、もしそうだったなら、殿の役に立てるのに――
そんな思いがほんの少しあったのも事実だ。
「生活の変化と、心労が原因ですね。
若い女性、特に嫁がれたばかりの方にはよくあることです」
医者が下がると、広間に静けさが落ちた。
「……すず」
長政がすずの隣に座り、そっと肩に手を置く。
責める気配はどこにもなかった。
「懐妊でなくて良い。
体が無理をしていたのなら、なおさらだ」
「……でも……殿の子を、授かれたら……」
「焦るな。
時が来れば授かる。
その時は、“すずの身が整ってから”でいい」
柔らかい声だった。
それなのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
長政はすずの髪に触れ、静かに整えてくれた。
不安を払いのけるような、優しい手つきだった。
「すずの体は、ひとつしかない。
それを守るのが、まず第一だ」
その言葉を聞いた瞬間、涙がにじんだ。
(……殿は、私を責めていない)
それだけで救われるようだった。
◆
翌日。
お市の部屋に呼ばれた。
妊娠中のお市は、以前よりも表情が不安定で、今日は特に機嫌が揺れているのがわかった。
「聞きましたよ、すず様」
扇をぱちりと鳴らしながら、涼しい声。
「月のものが止まったから、皆が騒いだそうですね。
さぞかし“期待”されたのでしょう?」
すずは俯いた。
「……殿に、ご迷惑を……」
「迷惑? まあ、そうですね」
お市は笑った。
その笑みは柔らかいのに、刺すようだった。
「私は身重。
あなたは子が宿らない。
殿も大変ですね。どちらを気遣うべきか、悩まれて」
「……っ」
「環境の変化と心労?
そんなことで乱れるなんて、まだまだ子どもですね」
その言葉は、胸に深く刺さった。
お市はおなかを撫でながら言った。
「妬まれる覚えはありませんけれど、すず様のようなお子様では、殿の“支え”にはなれないでしょうね」
すずは返す言葉もなかった。
◆
その日の夕刻、殿は私を見るなり察したようだった。
「……市のことか」
すずは何も言っていない。
それでも長政は溜息をつき、そっとすずの手を取る。
「すず。市の言葉を真に受ける必要はない」
「でも、私……っ」
「体が弱るほど無理をしておきながら、責められてはたまらない」
長政はすずをそっと抱き寄せた。
優しく、傷ついた心を包むように。
「すず。
俺はすずが子を宿していなくとも、そばにいてほしいと思っている」
胸の奥が熱く震えた。
「焦らなくていい。
すずの心と体が安らぐことが、何より先だ」
大きな手が背に添えられ、その温かさが心の痛みをゆっくり溶かしていく。
「……ありがとう、ございます」
「すず。
お前の価値は“子を宿すか否か”では決まらない。
俺がすずを望む理由は、ほかにいくらでもある」
静かに落ちる声が、九月の涼しい風よりもあたたかかった。
月経不順は実際にあるそうです。
環境の変化と栄養不足、ストレスからなることがほとんどで、日本では戦時中によく見られたそうです。
すずは前回の後書きの通り強い女の子ではないので、周りのプレッシャーとか、そういうものに潰されてしまいます。
新たな『浅井家』という環境、周りからのプレッシャーやストレス。
それが引き金となったようです。




