第十四話 監視
第十四話 監視
その日の城は、朝からむっとする蒸し暑さに包まれていた。
障子越しに射し込む光が白く揺れ、蝉の声が一層強く聞こえる。
長政の書状を運ぼうとしてすずが廊下を歩いていたとき――
すっと、影が差した。
「すず様。
どこへ行かれるの?」
振り返ると、お市だった。
涼しげな小袖をまとい、扇で喉元をゆっくりあおいでいる。
「殿に、これを……」
書状を掲げると、お市は一歩、すずに近づいた。
その距離が、いつもより近い。
「……そう。
殿は、最近すず様をよく呼ばれますものね」
穏やかな声なのに――
背筋にひやりとしたものが走った。
お市は微笑んでいる。
けれど、その目は笑っていない。
扇を閉じ、軽くすずの腕に触れる。
ほんの一瞬だけれど、逃げられないようにするような位置だった。
「正室として申しておきますね。
殿は、とても忙しいお方。
……あまり、そばに居すぎると困ることもありますの」
言葉はやわらかいのに、
胸の奥で警鐘のように響いた。
「あの……わ、私は、その、殿のお役に――」
「見ていますよ、すず様」
お市の声が少し低くなる。
でも怒っているわけではない。
ただ、確かに“線”を引くような響き。
「殿が、すず様を見る目。
そして……すず様が殿を見る目」
すずの呼吸が止まる。
お市はすっと扇を開き、口元を隠しながら、鋭いほど澄んだ瞳で覗き込んできた。
「その目……正室の私が気づかないとでも思いましたか?」
胸がぎゅっと縮まる。
怒られているわけではないのに、足がすくんだ。
お市は一歩、さらに近づく。
扇の影から白い頬がのぞき、その表情はただ静かだった。
「殿は、私の夫です。
……忘れないでくださいね、すず様」
はっきりと言われたわけではない。
でも、その“空気”が言っていた。
――近づきすぎないように、と。
すずは思わず頭を下げる。
「……はい」
お市は満足したのか、すっと離れ、再び扇をあおぎ始めた。
「すず様。
あなたが悪いとは申していませんよ。
ただ……世間の目は厳しいもの。
殿は立場のあるお方。
余計な噂を立てられぬよう、お気をつけて」
そう言うと、ふっと笑った。
今度は、ほんとうに柔らかい笑みだった。
でも――その奥に、
“殿は私の夫です”という揺るぎない自信と、正室としての誇りが見えた。
「では、失礼いたします」
お市の足音が遠ざかっていく。
廊下に取り残されたすずは、じんわりと汗が滲んでいるのに気づいた。
暑さのせいだけではない。
胸の奥がざわつく。
しっかりしないといけない。
殿を困らせるわけにはいかない。
そう思うのに――
長政の顔が浮かぶと、心はどうしても静まらなかった。
◆
数日後の夜、すずは長政の命で湯上がりの着替えを運んでいた。
廊下を曲がろうとしたとき――
背中に、ぞくりとする気配がまとわりついた。
「すず様、こんな夜更けにお務めとは……熱心ですね」
振り返るより早く、声が届いた。
お市が、灯りの影に立っていた。
「い、いえ……殿から、こちらへと……」
言い終わるより早く、お市はゆっくり近づいてくる。
扇を閉じ、手を添えてすずの腕を止める。
笑みは優しいのに、目だけが鋭い。
「最近のすず様……少し“動きすぎ”ではなくて?」
「……っ」
「殿のそばを歩く時間も、長くなりましたね。
それが悪いとは言いませんが……」
お市は、穴が空くくらいにじっとすずを見つめる。
「……“見られている”ということを、お忘れなく」
その一言は、まるで背中に冷たい刃が触れたみたいだった。
「城中には目がございます。
殿のお部屋に“近づきすぎる”と、どんな噂が立つか……」
言葉は柔らかいのに、
“殿に近づくな”という雰囲気が、隠しきれていなかった。
「すず様は、悪くありませんのよ。
ただ……殿は、私の夫ですから」
その声は美しく、しかし揺るぎなく強かった。
正室――その存在の重さが、胸にのしかかる。
お市はふっと扇を広げ、あたかも風を送るようにすずを見送る動作をする。
「さ、行ってらっしゃいませ。
殿に“疑われるほど遅くならないよう”お気をつけて」
からかうような声音。
でも、その裏にかすかな棘がある。
歩き出すと、お市の視線が背中に刺さるように感じた。
――見られている。
気づかれている。
足が震えたまま、長政の部屋へ向かう。
襖をそっと開けると、長政は灯りのそばで文を読んでいた。
すずの影に気づくと、顔を上げる。
「すず、遅かったな。……どうかしたか?」
殿の穏やかな声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけそうになる。
けれど、後ろにいたお市の影が離れず、言葉が出なかった。
「……お市様と、廊下で……」
言いかけると、長政はそっと立ち上がり、すずのそばへ歩み寄る。
「市が、何か言ったのだな」
その声は静かで、でも芯が通っていて――
胸の奥がじんと熱くなる。
長政は、すずが抱える着替えの包みを受け取りながら、
手が触れないよう気遣っているのがわかった。
なのに、どこか距離が近い。
灯りが二人の影を重ね、息づかいがかすかに重なる。
長政は、すずの肩に落ちていた髪をそっと整えてくれた。
「そんな顔をするな。
市の気持ちもわかるが……俺は、すずを困らせたくない」
指先が一瞬、帯の端に触れた。
ただ整えるための、ほんの軽い触れ方。
それなのに、胸が大きく跳ねた。
「すず。
お前が怯えたままでは、俺が良き夫とはいえない」
灯りが殿の目を照らし、
その眼差しがすずだけをまっすぐ見ているのがわかる。
「……今夜は、すずに少し……傍にいてほしい」
落ち着いた声なのに、心の奥を揺らしてしまうほど優しい。
肩にそっと手を添えられた瞬間――
さっきまでの恐さが、すっと消えていった。
殿の部屋は、蝉の声も届かぬ静けさで、
外の蒸し暑さとは違う、やわらかなぬくもりが満ちていた。
やはり正室は強いですね。
特に実家の後ろ盾が強いと尚更。
すずも決して強い女の子じゃないので余計気にしてしまうんですよね。




