今生はここまで
「おう、正遠。長年という方は案外早く到着するんじゃな」
長生が聞くと、正遠は少し複雑な顔をした。
「どうした?」
長生に不機嫌な顔を向ける正遠。
「まあ、名和様は船にかけては私より上手じゃ。にしても、早すぎる」
そう言って、正遠は港の方へと逃げるように去る。長生は不思議な顔で見送る。
すると、行子の声がする。
「兄様、釣りに行かんか? 今日こそ、釣るのじゃ」
竿を上げる動きをする行子に、長生はうんざりした顔で返す。
「船の上でも釣れんかったんじゃ。陸から釣れるわけなかろうに。お前の衣類や髪飾りでも買いに行った方がよかろう」
それでも、行子は言う。
「そんなんは、どうでもいい。行子は兄様と釣りをしたいのじゃ!」
仕方なく、長生は釣竿を持つ行子と出かけることにする。
「これは、太公望を決め込むだけになるぞ」
船着き場近くに座りながら、長生は行子に言う。
「兄様は相変わらず、漢籍をよく知っとるの。こうして、釣り糸を垂らしながら、誰かを待つのであろう?」
行子の言葉に笑う長生。
「そうな。自分を変えてくれる、優れた人をただ待つのじゃ」
行子はうれしそうに笑い、下を一度向く。顔を上げた。
「行子がこうして待っておったら、兄様は来てくれるかえ?」
不思議な問いに、長生は考える。
「まあ、行子が退屈すると、機嫌が悪うなるからの。早めに声をかけるだろうな」
行子はクスっと笑う。
「よかった。安心して、行子は釣りができまする」
何か、行子がおかしい気がした。長生が何か言おうとしたとき、釣竿が動いた。
「あ、兄様、魚が、かかったようですぅ!」
長生があわてて行子の背中側から竿を握る。なんとか制御し、頃合いを見て竿を上げる。糸の先には、小ぶりながら食えそうな魚があった。
「おお、行子! 釣れたぞ」
腕の中で行子が笑っていた。いや、少し泣いていた気さえする。
夕方になる。行子は釣った魚を大事に籠に入れ、長生と楽しそうに歩く。
「人は善行を積めば、何度も生まれ変われます。兄様は、何度生まれ変わったら、行子を好きになってくれますかあ」
いつもの行子ののろけだった。こうしているのが楽しいのだろう。
「兄は何度か地獄へ落ちるんでの。それが終わるまで、待っててくれ」
長生の言い分を想定していた行子が笑う。
「そうでしょうねえ。だから、私はお待ちしますよ。何千年では、足りませんね。何万年? 平気です……、よ」
行子が変だった。言いながら泣き崩れた。
同時に長生は気配を感じた。一呼吸置いた。剣を抜き、払った。
切っ先が届かなかった先に、顔の赤黒い大きな男がいる。その後ろには、正遠も。
長生は左手で剣を握り、右手を行子にかざした。
「逃げろ!」
行子にとって、それは奇跡のような光景だった。関長生の血風陣の中で自分は保護されているのだ。あたたかくて、どうにもならない。
何の隙も見せない長生に、赤黒い男が折れる。
「関長生殿、名和長年だ。貴人を王のもとへお連れするので、剣を下げてほしい」
堂々とした言葉だった。正遠は横を向き、海を見ていた。だが、それが長生には気に食わない。
「いつ、わが妹を連れ去る気じゃ」
一歩も引く気がない長生が聞く。
「探題に捕捉されたくない。今、すぐじゃ」
名和長年が問答無用に言った瞬間に、長生は旋回した。すさまじい剣風が、周囲を行子から遠ざける。
「正遠! 火と塩持ってこい。魚焼くまで、ワシはここを動かんぞ」
少しの時間の後、正遠本人が小さな火鉢を持ってくる。塩もあった。
「行子、さっきの魚を焼きなさい。お兄やんと食べよう」
正遠は火鉢を置く。ふたりを見ることもなく逃げた。
「お兄やん、ふたりではじめて釣れたお魚、食べてみよう」
行子は魚を焼きだした。誰ひとりとして動けない殺気を放ちながら、長生は待った。名和長年も、橘正遠も動かない。
「お兄やん、焼けたみたい。小さいけど、おいしそうよ」
行子の声を背中で聞いた瞬間、関長生が吠えた。
「おおぉおっ!」
そのまま、剣を一閃する。名和長年も橘正遠も、首が飛んだと感じた。剣風に数歩下がった。その距離の中心で兄妹は話す。
「行子、ワシらの初の釣果じゃ。食うてみよう」
ふたりで、小さな魚の背肉を口にする。たまらないほどに、おいしい。
「お兄やんと私は、釣りの名人じゃの」
行子の言葉に長生は笑う。その笑顔を見て、行子は決心した。抱きついて、唇に触れる。長生は逃げてはいけない気がした。
「ごめん、お兄やん。私、今生はこれでいいよ。出会えてよかったよ。さようなら、大好き!」
長生は、それではいけないのだと思う。だから、呼吸ができた次に言う。
「行子、生きていけ。それができればいい。すべてに困ったら、箱根の西でそばがきを売っている者に聞け。月山の里はどこかと。石動力という人を頼れ。ワシの縁者じゃ。いいか、石動力だ!」
行子はちゃんと聞いた。うれしくて、どうにもならなくて、泣きながら、ただ、うなずいた。
ずっと、橘正遠は海の方を見ながら聞いていた。




