楠木兵衛尉正成
大和盆地に入るが、南都の方へは向かわない。もっと南へと歩き、葛城山系の山に踏み込む。
武装した僧兵と何度かすれ違う。長生は真後ろにヒナギクを置き、通り過ぎる。ヒナギクの横にはツキ。後ろには紫苑がいる。
何か感じれば、ツキの動きが変わるはずだった。
峠近くに至る。このまま下れば、和泉、摂津の港を見下ろす形になる。
ヒナギクが脇道を指さす。長生がうなずき、方角を変える。少し歩くと、柵が見えた。
「ヒナギクが来たと、主に伝えよ」
詰問しようとやってきた武者に、ヒナは威圧感でそう返す。かなりの時間を待った後、柵の中に通される。山をどんどん歩く。
多くの武者らしき者や農民が、荷物を運び続けていた。合戦前の景色と長生は思う。
屋敷から、中背のやせた男が出てきた。長生を最初に見た。目が合ったので、長生はそのまま目を切らない。やせた男が笑う。次にヒナギクを見た。
「ヒナ様、ご無沙汰です。急な御用ですか?」
そう声をかける。ヒナギクは容赦ない声で応じる。
「兵衛尉、別に寄ったわけではない。三河、尾張を通り、丹波へ向かう途上に通りすがっただけよ」
ヒナギクが応じると、兵衛尉の目が鋭くなる。でも、それは一瞬だった。
「まあ、通り過ぎることもありますまい。まずは、屋敷で落ち着いてくだされ」
兵衛尉の言葉にヒナギクがうなずき、屋敷に向かう。
でも、長生の背に言葉がかかる。
「関長生、お主は、ここに残れ」
名乗ってもいないのに、名を呼ばれた。素性がバレている。長生はいつでも剣を抜ける準備をする。そして、返す。
「姫君を守護する任がございます故、御免!」
突っぱねる。兵衛尉は、また笑った。
「お前ほどの武者がついたか」
死地を感じた。長生は戦場の殺気を発し応じる。それでどうなる場所でもないとは、わかっていた。
足利高経の屋敷であっても、ここまでの緊張はなかった。あくまで、平和の中にあったからだ。だが、ここは違う。すでに合戦場の殺気が満ちている。
兵衛尉はヒナギク一行を切り離すこともしなかった。離れに誘い。ツキの寝床さえも用意してくれた。でも、殺気は強い。
「主が小宴を催したいと申しておりまする」
大柄な武者がそう呼びにきた。
「行く。ただし、全部で行くぞ。帯刀も理解しろ」
ヒナギクは一歩も引かない。
「もちろん」
武者は応じた。誘われるまま、廊下を進んだ。
長生をまっすぐ見るのは、兵衛尉と呼ばれた男だった。
「関長生、なぜ、ヒナギク君を守っておる?」
長生は目を切らない。頭も下げない。
「守護すると、決めたが上のこと」
まっすぐに男を見る。
「なぜ、決めた?」
兵衛尉はしつこい。長生は隠す気もなくなる。
「弱く、清いと見定めた」
兵衛尉の顔が変わった。長生をまじまじと見る。
「清いと?」
長生は言葉で返さない。ただ、うなずく。次に言葉を発するのは、お前の番である兵衛尉。そんな気分になる。
「なるほどな。ヒナ様は清いか……」
長生は動かない。早く、続きを言えと目で促す。
「どこが、清いと思うた?」
兵衛尉が問う。長生は微動だにしない。次は、お前が話す番だ。ごまかすな。そういう顔をする。ただし、殺気も発しない。不動を決め込む。
「関長生、強いのう」
さらに兵衛尉。長生はピクリとも動かなかった。
紫苑は恐ろしい神経戦であると理解した。長生が兵衛尉の気勢に負けて、ヘラヘラと笑ったり、言葉を返したりすれば、そこで負けだ。力関係は決まる。だから、長生は断固として引かない。
息苦しいと感じた。兵衛尉も表情を変えないのだ。
すると、庭先にいたツキが勝手に廊下に上がった。
そのまま、ここにヒナギクらを誘った大柄な武将の前に座る。
「ワフッ!」
小さく吠えて、尻尾を振りまくる。口からは無限のよだれが垂れ、床にボタボタと落ちる。
見ていた兵衛尉と長生が、同時に笑った。
その隙を、ヒナギクが逃さない。
「正成、お前がちんたらしよるから、私の右将軍が腹を空かしてしもうた。詫びろ」
言い放った。笑ってしまった兵衛尉、ヒナが正成と呼んだ男が頭を下げた。
「申し訳ありません。関長生殿の真贋を確かめたくて……」
正成の言葉をヒナは鋭く遮る。
「剣でお前は勝てん。勝ちたきゃ、知恵を絞れ。楠木正成」
その言葉に正成は頭を下げた。
ツキのよだれが尋常ではないため、そのまま、膳が運ばれてくる。
「正成、ツキに毒を盛ったら、瞬時に長生の剣がお前を両断するからの」
ヒナギクはさらに厳しい。
「お前は見抜いたのであろう。長生の豪剣を、それを生かす瞬間をつくるツキの機転を。だからと言って、ワシを切ろうとしても、紫苑がおる。面倒極まりないと」
鋭すぎるヒナギクの洞察に、正成が困る。
「たしかに、殺せるかを一度考えました。かなりの確率で己が死ぬと見定めました」
物騒な話をしながら、小宴となる。膳には摂津、和泉方面からの海の幸と、大和の山の幸が雑多に盛られていた。贅沢な夜だ。
「関長生、楠木兵衛尉正成じゃ。ワシが先に飲む。死ななければ、お前も飲め」
瓶子から椀に注いだ酒を一口飲み、長生に渡す。
長生は正成が実際に飲んだかを確認する。
「飲んでない。やり直せ」
長生は椀を正成に返す。正成はあきらめる。
「鋭いな。よう見ておるわ」
正成が言うと、長生が応じる。
「今更、毒もないのに、芝居を続ける。畿内最強の悪党とは、おかしな人じゃ」
今度は正成も酒を飲む。受け取った椀の酒を、長生はグッとあおった。
「うまいですな」
そう言う長生を、正成はじっと見ている。長生は無視して、酒の入っていた椀を眺めている。




