やさしいお犬
山を下っていくと、いくつかの川が流れる小さな平地が見える。ここが伊賀だ。尾張から大和をめざす間にあり、伊勢にも通じる。交通の要衝でもある。
まだ、昼にもなっていない時間なので、この先どうするかはゆっくりと決められる。
「ねえ、いい柿があるよ」
紫苑が店先で売られる熟れた柿を見て、うれしそうに長生を見る。
だが、長生が気づく。ツキが虚空に鼻をきかせ、勝手に歩きだす。
「ツキ、どこ行く?」
ヒナも気づき、ついていく。ツキは一度振り返った。いつもの意地汚い顔ではない。
ついてこい、というような顔で、そのまま歩く。長生らも足早に歩く。
民家の門前に腰掛を置いて座る子どもがいた。ツキはその方向に駆けた。
子の目の前に立つ。尻尾を振って、見ている。
「ワフッ」
小さく鳴く。子どもが気づいた。少女のようだ。
「わあ、お犬? どんな顔? さわっていい?」
少女が言うと、ツキは少女のヒザに首を置く。そして、目を閉じた。
「さわって、いいのね?」
少女は言う。恐る恐る手を伸ばす。手の位置が探るようだった。
眼の光を失っているのだと、長生は理解した。紫苑とヒナは驚いていた。
少女はツキの頭を見つけた。形や大きさを確かめようと、その顔を無造作に触る。でも、ツキは嫌がらない。クシャクシャになっても、それを受けている。
「怒らないのね? やさしいお犬。温かいわあ」
少女はうれしそうだった。
ヒナギクは何も言えなかった。ツキという犬が、なぜ、あんなに人の心や言葉を理解するのか、ようやくわかったからだ。
長生も驚いていた。そして、口にする。
「ツキ、お前って、光を失った人を導く犬だったのか?」
ツキが振り向いた。うれしそうな顔。尻尾がずっと揺れている。
少女が気づいた。
「このお犬、ツキ、って言うんですね? もしかして、真っ白?」
少女の問いにヒナが笑ってあげる。
「うん、お月様みたいに真っ白なの。だから、名前はツキ。ついでに、ツキも呼んでくれるんよ。ただし、食い物に意地汚いけど」
少女は笑った。ツキをずっと触ってる。
「じゃあ、ごちそうしたら、私もツキをいただける?」
少女は無邪気だった。瞳は開いているのに、光はなかった。でも、ツキはうれしそうに少女を見ている。ダラダラとよだれを垂らすこともない。
すると、奥からひとりの男が出てくる。
「サクラ、どうした? 楽しそうやの」
そして、長生らと目を合わす。そして、ヒナギクを見た。
「ひ、ヒナ様?」
ヒナギクは顔を上げて男を見た。
「なんや、服部か。お前の娘か?」
男が驚き、うなずき、あわてた。
服部という男の屋敷に入っていた。庭ではツキと少女がずっと遊んでいる。
「どうして、ヒナ様が急に?」
男が言う。
「別にお前に会いに来たわけではない。伊賀を通りすがりにするところ、犬が勝手に娘と遊ぼうとしたのじゃ」
ヒナギクは機嫌悪そうに返す。そして、長生を見る。
「この者を信じてはいかん。クソ悪党じゃ。長生、あやしい動きを少しでもした瞬間に斬れ。服部も強いが、長生にはかなわん」
その服部が長生をちらりと見る。長生はあえて殺気を消す。わかりにくくなったので、服部は長生をじっくり見つめる。大太刀を見た。長生の背丈と腕の長さ、拳の力感を見る。
よくて五分、と服部は見定める。とんでもない豪勇に感じる。
「服部、長生を見定めたか? やめとけ。聞いたことないか? 上野、武蔵で関羽の武、と呼ばれとる男じゃ。ヒナギクの左将軍じゃ」
服部は頭を下げる。
「せっかくのご縁、一晩でも、御逗留願えませぬか?」
ヒナギクはさらにかぶせる。
「ヒナギクの家臣でもある犬のツキが、お前の娘になついた。だから、娘に免じて、今日はここで過ごす。余計な事したら、私の左将軍が青龍偃月刀でお前の首をはねるぞ」
ヒナが怒り通した。仕方ないので、長生は服部に合図を送る。
(姫様のご機嫌を損なわぬように)
服部は理解して返す。
(娘の前じゃ、助けてくだされ)
長生が笑う。
「ツキ、ツキ! お肉が焼けたぞ。伊賀ではこっそりと牛も食うのじゃ。それはそれはおいいしい。一緒に食べてくれ」
サクラがツキに焼いた獣肉の串を持って言う。ツキは壮絶なよだれを垂らしていたが、彼女には見えていない。よかったとさえ紫苑は思う。
「サクラちゃん、そのままやると、ツキが串で喉を貫くかもしれぬ。器に盛った方がよい」
紫苑の言にサクラが喜ぶ。
「そうか! そうですね。器、器」
紫苑が器を手に渡してやる。サクラは熱いのも気にせず、串から器にそれを移す。
「ツキ、どうぞ。おいしいよ」
言われた瞬間に、ツキは器に突進した。サクラの手がツキのよだれでベトベトになる。
サクラは、その変な感触に驚く。
「ああ、手でお肉を触ったから、こんなにベタベタになりましたぁ」
そう笑う。紫苑は手桶を持ってきて、彼女の手を洗ってあげる。
「紫苑様もおやさしい。ツキと同じですねえ」
紫苑は何も言えない。よだれのことも、触れてはいけない気がする。




