9.図書館
晴れている日は公園に暇つぶしに行くが、天気の悪い日は図書館に行くことに決めている。
図書館の中は静まり返っていた。いつだってここは静かであるべき場所だ。
人の気配、紙をめくる音や歩く音が聞こえないだけで、まるでこの場所にはオレ一人しかいないような、そんな空間が出来上がっている。
そこら中一面真っ白な雪の道を歩いている時のような静寂。
床を鳴らすオレの靴の音ばかり、館内に響いている。
「ん……?」
閲覧室は誰も座っていなかったが、よく見ると本棚の方に誰かがいるようだ。ここはオレ一人ではないらしい。
一人の青年が本棚の高いところに手を伸ばしている。踵を浮かせて背伸びをするも、目的の場所には届いていない。
高くそびえ立つ本棚をじっと見つめる目は、何を考えているのか判然としない。
届かないせいで苛立っているようにも、悲しんでいるようにも、足掻いているようにも見えない。
平然とした、取れなければそれでいいと言った表情で、細い腕ばかりが忙しなく動いている。
肩の上でふわふわと揺れる黄金色の髪、脇の下に挟まれた松葉杖。
その姿には見覚えがあった。
「どれが取りたいんだ」
そいつは振り返った。片目は長い前髪で覆われ、凪いだ海のような感情のない青いひとつの瞳がオレを見つめる。
「本のタイトルは?」
「……えん」
「あ?」
「広辞苑」
「……は?」
「広辞苑を取ってほしいとボクは言っているんです」
冗談を言っているとは思えないマジな顔をしている。
こいつ、さては広辞苑って単語を知ったばかりでそれが何か知らないんだな。広辞苑のことを小説か何かだと勘違いしているのかもしれない。
まあいい。どちらにせよオレには関係ない話だ。
「ホラ、受け取れ」
広辞苑は何版か置かれていたが、そのうちのテキトーなやつをそいつに手渡す。
「ありがとうございます」
「どーいたしまして。んじゃ」
手助けしたのだから、もう話すことはない。片手を上げ踵を返したオレの裾を、後ろから引っ張られる。
犯人は言うまでもない、広辞苑の青年、レイだ。
「なんだよ」
そいつは何も言わなかった。オレに広辞苑を押し付けると、無言でオレの裾を引いたまま、ひょこひょこと歩き出す。
細い腕から出てる思えない腕力は、ユキさんを彷彿とさせる。
……オレはユキさんだけじゃなくこいつにも腕力で負けるのか。
腕立て伏せの数、増やそうかな。
「外出歩いて大丈夫なのかよ。そんな格好してたら目立つし、刹那さんに怒られるだろ」
「あなたが告げ口をしなければバレませんよ。それに、これは実験の一環なんです」
「実験?」
「ちょっと、調べたいことがありましてね」
「そのために広辞苑を?」
「当たらずといえども遠からず、と言ったところですね」
相変わらずこいつは、何が言いたいのかさっぱり分からん。
がら空きの閲覧室を鷹揚と歩く。長机とパイプ椅子が所狭しと並んでいる空間。設備は安っぽいとはいえ、ここまでがらんどうだと、壮観だ。
レイは扉から一番離れた場所に座り、オレを隣に座らせる。片手でオレの服の裾を掴んだまま、もう片方の手で広辞苑を読み始めた。
「……オレに何か用でも?」
「そのような予定はありません」
「じゃ、手を放してくれるか」
裾を引っ張られる感覚が消えた。代わりに今度は手を繋がれてしまう。
マジでなんなんだ、こいつ。
広辞苑を見つめたままレイは語る。
「ボクが以前トモダチの意味を尋ねた時、刹那は言ってたんです。『見返りもなく優しくしてくれた相手には借りを返せ。それを何度も繰り返せばトモダチになれる』と」
「で、その話とオレが今手を掴まれていることに関連性はあるのか?」
「恩返しです。あなたは見返りなくボクを手伝ってくれた。だからボクはあなたに借りを返すべく、こうして手を握っているんです。あなたは今暇を潰せるもの、例えば話し相手など、を探している。ボクはそう判断しました」
「お前の判断は間違ってるな」
「いいえ、そんなことはありません。ボクのジャッジメントは10%の確率で当たります」
それは判断とは言わない。勘と言うんだ。
「……つまりお前は友達が欲しいと、そういうことか」
「はい」
「じゃあ他を当たりな。何の実験だか知らねえけど、オレはお前と友達になるつもりはない。一生な」
「ああ、それなら安心してください。ボクはおそらくあなたの何倍も長生きしてますから。近所のご老人と仲良くするような気持ちで接していただければ、それでいいので」
……オレは老人とゲートボールする趣味も持ち合わせていない。
「お前、中二病ってやつか」
「中二病、とは? ……どうやら広辞苑には載っていない言葉のようですが」
「だって、刹那さんってまだ……」
待て、女性の年齢を尋ねるのは失礼か。
「まあいいや。今の言葉は忘れろ」
面倒なやつ。でも、少し面白いと思った。
オレははっきり言ってこいつのことが好きではないが、暇つぶしにありがたく使わせてもらおう。
握られていない方の手で頬杖をついて、レイを見る。
髪と同じ色をした睫毛が、瞬きをするたびにかすかに揺れる。前髪に覆われた瞳が、それが本来持つ色よりも薄く濁っていることを知っているのはオレだけだろうか。
不便だろうに、こいつは決して壊れた目を、破損した足を直そうとはしない。
何を考えているか分からなくて、不気味で、オレがこいつに苦手意識を持つ理由のひとつだ。
何を調べているのか興味か湧いたオレは、隣から辞書を覗き込んでみた。そして、白い指が辿っている文字を認めた瞬間、思わず吹き出していた。
「こ、恋!?」
なんてもん調べてるんだ、こいつは。
「……お前、誰か好きな人でもいんの?」
「いません。が、これから作る予定です」
そんな能動的に、恋ってのはできるもんなのか。
「刹那に意味を尋ねた時、私にはそんな人いないから分からない、と言われたんです。それで、外出のついでに意味を調べてみようかと思いまして」
「ふーん」
「もしよろしければ、高嶺さんがボクの好きな人になっていただけませんか」
「断る」
「そうですか、残念です」
さほど残念でもなさそうに、無表情でレイは言う。そういう奴だ、こいつは。
あまりに熱心に辞書を見つめているので、そんなに面白いものかとオレも一緒になって読んでみる。
『【恋】一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。』
胸がズキッと痛む。
オレが顔を顰めたのを横目で確認したようで、レイが口を開く。
「恋とは、悲しい感情なのですね」
「……そうかもしれないな」
ユキさんの顔を、それから小可さんの顔を思い出す。
少なくともオレの周りには、このような意味で「恋」をしている人はいない。
みんな、幸せそうだ。




