10.衝動
いつもは家にいるユキさんが珍しく外から帰ってきていない。仕方ないので、鍵を使って中に入る。
真っ暗な部屋がオレを出迎えた。電気もつけずに立っていると、朧げだった部屋の輪郭が次第にくっきりと見え始める。
少し古びたソファ、カーテン。ダイニングテーブル。冷蔵庫のモーター音。
どこからともなく冷たい空気が忍び寄って、オレの肌を撫でていく。そのひやりとした空気は、不意に襲ってくる不安の感覚とどこか似ている。
憂鬱が、体の奥底からマグマのように這い出てくるのを感じる。マグマのようにドロドロとしたその感覚は、体の周りにまとわりついて、オレを解放してはくれない。
ああ、ダメだ。引きずられる。
笑わなければ、笑わなければ、笑わなければ_____
急に明かりがついた。振り返ると、そこには花束を持ったユキさんが驚いた表情で立っていた。
「あ、お帰りなさい。今日は早かったんですね」
「……早い?」
「だって、今は六時ぐらいで──あれ?もうこんな時間! ごめんなさい、すぐにご飯を用意しますね」
ユキさんは荷物の詰まったエコバッグを冷蔵庫の前に置き、慌ただしく洗面所へと駆けていく。
「……また、朝一さんに会ったの?」
ソファに置かれた、小さな花束。
「そうなんです。買い物をしていたら外でばったり会って、このお花をくれたんですよ。朝一さんって、とっても優しい方ですよね」
朝一さんは、この街で喫茶店のマスターをやっている。ユキさんのことを気に入っているようで、会うたびにこうして花束を渡してくるのだ。
「花はオレが移しておくんで、ユキさんは夕ご飯の準備をしておいてください」
「わかりました。ありがとうございます」
ユキさんはキッチンの方に去っていく。その場にオレと花束が残された。
『親愛なるユキさんへ』と書かれたカードが挟まっているのを発見したので引っこ抜く。窓際の花瓶を机に置き、中の萎れかけた花を新聞紙に包む。そして新しくやってきた花束の葉を取り、茎を花瓶の大きさに合わせて切っていく。
「……こんなもんか」
花瓶を元の場所に置いて、新聞紙をゴミ箱に捨てる。カードは捨てるかどうか迷って、結局制服のポケットの中に入れておいた。
「──美味しいですか?」
「はい」
「よかったです」
ユキさんはほっと胸を撫で下ろす。 そして、いつものようにオレが食べているところを頬杖をついて嬉しそうに見ている。
オレは黙ってご飯を食べる。
「どうかしました?」
「え?」
「なんだか、元気がないような気がしたので」
「……オレの顔はいつもこんな感じですよ。気のせいじゃないですか?」
さっきからずっと頭を支配して離れない憂鬱を隅へと追いやる。そして笑う。
「……えむぴー」
ユキさんがぽつりと呟いた。
「近所のお子さんに聞いたんです。魔王退治には何が必要か。そしたら、えいちぴーとえむぴーが必要なんだっておっしゃってました。体力も必要だけど、敵の攻撃をバリアーしたり体力を回復したりできるえむぴーもとっても大切なものなんだって」
「……へぇ」
「えむぴーが少ないと元気がなくなっちゃうんですって」
ユキさんは目を伏せ、膝の上の手を固く握りしめる。
「今日の希くん、笑顔が下手くそですよ。えむぴーが足りてないんじゃないですか? ずっと魔王退治に行ってるから」
怒っているような悲しんでいるような、そんな顔をしている。
「……ユキさんって、オレが笑うと悲しそうな顔をしますよね」
オレが笑っていると泣きそうな顔をする。オレが怒っていても泣いていても、やっぱり泣きそうな顔をする。
じゃあ、どうすればいいんだろうか。どうすればオレはユキさんを悲しませないで済むのかわからない。
オレはユキさんのことが好きなのに、いつもユキさんを悲しませてばかりいる。
「オレが笑ってるの、そんなに嫌ですか」
「そうじゃありませんけど……」
ほら、また泣きそうな顔。怒りそうな顔。
ユキさんにそんな顔はさせたくないのに。
「私じゃ、力になれませんか? 私じゃあ、希くんの悩みはわかってあげられないんですか? どうして私には何も打ち明けてくれないんですか 希くんは私のことを信頼してくれないんですか?」
「違うよ、そうじゃない」
違うんだ。オレはユキさんのことは信頼してるし大切な人だと思っている。
「オレは──」
何を言えば良いか分からず口籠もった時、脳裏に浮かんだのは、朝一さんだった。
「オレ……見たんだ。この前、ユキさんが朝一さんと一緒にいたところを」
「そうなんですか?」
ユキさんは首を傾げた。どうして朝一さんの名前が出るのか分からない。そういった表情をしている。
公園から家に帰るまでの道のり、スーパーに程近いところで二人を見かけた。
顔を上げて朝一さんに笑いかけるユキさんは、今まで見てきたどのユキさんよりも可愛く見えた。そんなユキさんを見て、朝一さんもはにかんだ。
ユキさんに手渡された花束。声は聞こえなかったけど、きっとあの人のことだ。甘い愛の言葉をユキさんに囁いたんだろう。ユキさんは顔を赤くして俯き、花束を受け取っていた。
リビングに決して欠かさず生けられている花は、朝一さんの愛の証だった。オレはその花を見る度に胸が苦しくて仕方なくなる。
「ユキさんは、朝一さんのところに行きたいですか」
パチパチと、目を瞬かせるユキさん。
「朝一さんのことが好きですか?」
そう尋ねると、今度は顔を赤くさせて狼狽えた。その顔を見れば答えは明白だった。
オレの居場所は次第になくなっていく。奪われていく。
だけど、勇気を出して一歩踏み出せば、ユキさんがオレの元から離れないことは分かっていた。
ただ一言「行かないでくれ」と言えば、ユキさんはオレのそばにいてくれる。
オレが好きだからじゃない。それがユキさんの生きる理由だからだ。
「行っても良いんですよ。あの人のところに」
オレはもう笑うしかなかった。こういう時、どういう顔をすれば良いのか分からなかった。
「ユキさん。あなたが来てもうかなりの歳月が流れました。あなたがオレの傍にいてくれたおかげで、オレはこうして大きくなれたんです」
幸い、働きまくりの親父のおかげで家に金はある。金さえあれば、後はどうとでもなる。
「だから、オレなんかの存在に縛られないで、あなたはあなたの好きなことをしてください」
「でも……歩望さんが」
「父さんにはオレの方から言っておきます。だから心配しないでください」
ユキさんは困ったような、泣きそうな顔をして、絞り出すような声を上げた。
「私はもう用済みってことですか?」
「違う、そういうわけじゃない。オレはただ、あなたを悲しませたくないだけなんです。オレのことでユキさんを悩ませたくないんです。あなたにはずっと、迷惑をかけてばかりでしたから」
「そんな、私、迷惑だなんて……」
ユキさんの瞳から涙がこぼれ落ちた。こんな顔をさせたくないのに、どうして上手くいなかいんだろう。
「お願いです、希くん。私をあなたの傍に置いてください。あなたがいなくては、私はどうすれば良いのか分からないんです」
「朝一さんならきっと、あなたを幸せにしてくれるはずです」
「違います、希くん。確かに私は朝一さんのことを大切に思ってますが、あなた以上に大切な人はいないんです。嘘じゃありません。本当です!」
ごめんなさい、ごめんなさい。
と、ユキさんはオレに何度も謝った。大きな灰緑色の瞳から涙をこぼしながら、同じ言葉を繰り返す。
「私を見捨てないでください。あの暗くて冷たい場所には、もう戻りたくないんです」
その言葉を聞いた時、目の奥が熱くなった。
ユキさんが顔を上げる。泣いて紅潮した頬を、潤んだ瞳を見ていると、全身を「オレ」ではない何かが支配する。
全てを奪ってしまえばいい。醜いそれは、オレに語りかける。
自分より幸せそうにしてる奴らが憎いんだろ? ならば、奪うんだ。奪って、自分のものにしろ。全部、全部──
衝動的に立ち上がり、オレはユキさんの細い手首を掴んだ。そして、ユキさんにキスをした。
ふわふわの髪の毛。華奢な体。シリコンのような唇の感触。
オレは、ユキさんが好きだ。好きで、好きで、大好きで──死ぬほどあんたが羨ましい。
オレにはあんたしかいないのに、あんたは当然のように他の男から愛されて、それを当然のように受け入れて。男でも女でもなくて、それが当然だと言うような顔をして。綺麗で、可愛くて、大人びていて、オレには持っていないものを全て持っている。
羨ましい。
たっぷりと時間をかけて解放してやる。次第に罪悪感が込み上げてきた。
何をやっているんだ、オレは。
「すみません……少しの間一人にしてください」
これ以上一緒にいたら、ユキさんを本当に傷つけてしまうことになる。
少し、冷静にならなければ。
「希くん!」
ユキさんも立ち上がって、キスの名残りで呼吸を乱しながらオレについてくる。
「ついてくんな」
「待ってください。こんな夜にどこに行くつもりなんですか」
「あんたには関係ない」
腕を掴もうとする手を払いのけ、オレは家を飛び出した。




