8.雨
「可哀想にねえ。あんた、こんなに小さいのに、お父さんは夜遅くまで仕事だなんて」
母さんのエプロンは捨てられた。新しく持ち込まれたエプロンを身につけ、その人は料理をする。
オレはその様子を物陰から観察していた。
「あんな人のこと、さっさと忘れてしまえばいいのに。いつまで意地張ってるつもりなんだろうね。だいたい私は反対だったのよ。プライドが高そうな顔して、可愛げがなくて。奥さんっていうのはもっと、愛嬌が良くて、男を立てるような人じゃなくちゃダメじゃない」
ぐつぐつと音を立てる鍋をかき混ぜ、誰に話しかけるでもなくその人は呟く。
「第一、のぞみ、なんて女の子みたいな名前をつけるなんてどうかしてる。どうせもういないんだし、変えちゃっても大丈夫よね。あの子に言っておかないと」
出来上がった料理を口に詰め込む。機械的に、淡々と。
言葉の濁流が喉奥に押し込まれていく。
あんたにその名前は似合わない。あんたにその服は似合わない。部屋のカーテンが、ソファが、テーブルが、全てが気に入らない。
「希、良い子にしてたか?」
「……」
「母さんに迷惑はかけなかったか?」
「……嫌い」
「え?」
「嫌い。おばあちゃん、嫌い。会いたくない。もう呼ばないで」
「どうしたんだ。今までそんなこと一度も言ったことなかったじゃないか」
「嫌い、嫌い、嫌い! 嫌だ! おばあちゃんなんか大嫌い!」
「希……」
捨てる。捨てる。捨てる。
全てが塗り替えられていく。
オレがオレでなくなっていく。
オレの居場所が奪われていく。
笑わなければ、笑わなければ、笑わなければ。
ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン。ティローン「希くん、朝ですよ! 起きてくださーい!」
オレの魂は元の体へとぐっと引き寄せられた。眠りという長い旅を終え、現実へと帰還する。
意識と肉体が結びつき、高嶺希は再構築を始めた。
××××
「美味しいですか?」
「ええ、とても」
「そうですか。そう言ってもらえて嬉しいです!」
灰色に近い緑色の大きな瞳がオレを見つめる。嬉しそうに笑う姿はとても可憐だ。
ユキさんの入れた紅茶を飲む。じんわりと体に熱が染み渡っていくようで、オレはほっと息を吐く。
「今日は朝から雨が降るみたいですよ」
「マジですか……」
「雨、嫌いなんですか?」
「雨の日って、体がギシギシ鳴って、調子が悪くなるんですよ」
脱臼癖のついた肩をさする。
「刹那さんに診てもらったらどうですか? 不調の原因が分かるかも」
刹那さんは、ユキさんを作った人だ。人里離れた林の中で、人目を避けるようにひっそりと暮らしている。
「それだけは勘弁ですね。治るものも治らなくなる。どころか悪化しそうだ」
「そんなことないですよ。刹那さんだって、ちゃんとした腕前を持ったプロなはずです!」
「ちゃんとしたプロが、あんな林の地下に家を構えてるわけないじゃないですか」
オレが思うに、あの人は絶対に非合法なあれやこれをやっていて、警察に目をつけられているのだ。怪しげな人体実験に関わって、犯罪に加担するのは御免である。
朝食を終えたオレは制服に着替え、玄関前に立つ。
「希くん、これ、今日のお弁当_____きゃあ!」
何でもないところで躓いたユキさんが、弁当ごとオレに突進してくる。
ユキさんの背中に手を回し、かろうじて抱き留める。
弁当は、激しい音を立てて地面に転がった。
「あ、ありがとうございます……っ」
ユキさんは恥じらいに頬を赤く染め、慌てて弁当を広い上げる。
「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」
弁当袋の表面についた汚れを手で払い、今度こそオレに手渡してくる。弁当を受け取り、学生用の薄いカバンに無理やり突っ込む。
「うん。行ってきます」
靴箱の上に立てられた写真立てに目をやる。ガラスの中の女性は、こちらを見つめて笑っている。
「……母さんも、行ってくるな」
ユキさんに見送られ、家を出る。外は予報通り雨が降っており、どんよりと雲が立ちこめていた。
降り始めてからそれなりに時間が経っているみたいで、辺りには水溜まりが点在している。
黒い折り畳み傘を開き、水溜まりを避けながら歩いた。通りがかった車が水溜まりの上を走り、跳ねた水がオレのズボンの裾にかかる。
気分は最悪だった。
あと三十分で学校が始まる。ギリとは言わないが、余裕があるとも言えない時間。
急ぐつもりはなかった。学校に行くつもりなど端からなかったからだ。
こんな天気の悪い日に苛々しながら学校に行くなんて、馬鹿のすることだね。真の賢者は勉強がしたいなら近場で済ませるのである。知らんけど。
ポケットに片手を突っ込み悠々と歩く。学校とは真反対の方向へ。




