36.コーヒー
数日後、オレは親父とユキさんと共に朝一さんの店を訪ねた。
親父が既に話を通していたようで、朝一さんはオレ達を認めると、店に入るよう促す。
「朝一さん。どうかユキのことをよろしくお願いします」
「もちろんとも。さ、ユキさん。荷物を置いておいで。君の部屋は二階に用意してある。行けば分かるはずだ」
ユキさんはトラベルバックを抱えて、「お邪魔します」とお辞儀をした。そして、花の綻ぶような素敵な笑みを浮かべる。
「希くん、良かったら顔を見せにきてくださいね」
ユキさんは最後までオレを責めも怒りもせず、以前と同じように接してくれる。その優しさが辛いこともあったけど、今は嬉しかった。
「毎日遊びに来ますよ。迷惑じゃなかったら、ですけど」
「迷惑だなんて、そんな。ね、瞬さん」
ユキさんと朝一さんは互いに顔を見合わせて微笑む。
「君が来たい時に来たら良い。とびきりのコーヒーをご馳走するよ」
……それはちょっと、勘弁してほしいかな。
ユキさんが躓かずに二階へと向かったのを確認して、朝一さんはオレ達に向き直る。
「ああ、そうだ高嶺さん。あなたにお伝えしなければならないことが会ったのを忘れていた」
「私に、ですか?」
「うん。ちょっとこっちに来てくれるかな」
朝一さんがちょいちょいと手招きをする。親父は言われるがままに朝一さんへと近づき、そして朝一さんは_____
「!?」
親父に思い切りビンタをした。
乾いた音が響き渡り、呆気に取られた親父が頬を抑えながら、呆然とした表情で尻餅をつく。
朝一さんはそんな親父の真正面にしゃがみ込み、にっこりと作り笑いを浮かべる。
「他人の家庭に口出しをするのはあまり好きじゃなくてね。あなたのことはユキさんから聞いていたが、とやかく言うつもりはなかった。だが、ユキさんを預かる立場となった今、私はある程度君達の家に介入できる立場になった、というわけだ」
笑みを崩しはしないが、明らかに朝一さんは怒っている。
そんな朝一さんを見るのは初めてで、オレは何と反応すれば良いのか分からず、オロオロと狼狽えることしかできなかった。
親父を起こそうと手を差し伸べかけ、朝一さんに目線で制される。
「君達にとってユキさんが大切な家族だったように、私にとってもユキさんは大切な存在だ。希君の頼みだから今回は彼女を引き取ることにしたが、私だって辛いのだということは、あなたには理解してほしい」
朝一さんはそう言って、親父の頭をぽんと軽く撫でる。
「ここまで協力してあげるんだ。これからはちゃんと、希君と二人でやり直すこと。幸せになるのを諦めないこと。分かったね?」
「……」
「お兄さん、お返事は?」
「……はい」
親父が弱々しく返事をすると、朝一さんは親父から手を離す。しかし、親父はいつまで経っても立とうとしない。
「どうしたんだい? 一発じゃ足りなかったかい?」
親父はくしゃりと顔を歪め、弱々しく頷く。
「一発だと言わず、何百発でも……それだけのことを私はしたんだ」
朝一さんは眉を八の字にして、呆れたように笑う。
「気持ちだけ受け取っておくよ。私の手が傷つきでもしたら、日本中にいる私の大勢のファンが悲しむことになる」
上の階から「瞬さん」と朝一さんを呼ぶ声がする。朝一さんは立ち上がり、楽しそうにオレに囁いた。
「嫌なことがあったら、君も徹底的に反抗してみれば良い。見てごらん、彼のあの情けない顔を。心の内に溜め込むよりは、余程スッキリするだろう?」
大人って怖いんだな……とオレは思った。
××××
それから、オレは何度も喫茶店にお邪魔をした。
ユキさんと朝一さんはその度に喜んでオレを迎え入れてくれ、二人の間に起きた様々な出来事を面白おかしく聞かせてくれるのだった。
ユキさんの左手の薬指に嵌められた銀色の指輪。不思議と嫌な気持ちはしなかった。それどころか、ユキさんの幸せを素直に受け入れられるオレがいた。
ユキさんと距離を取ることで、気持ちに整理をつけられたのかもしれない。
仲睦まじく笑い合う二人の姿が、オレには理想の夫婦に見えた。
いつまでもこんな生活が続いてほしい。他人であるオレがそう思ってしまうほどだった。
だけど、そんな日々は長くは続かなかった。
ユキさんの体は日々言うことを聞かず、動かなくなっていく。
オレのことを忘れる日もあった。出会った頃のように、一切の感情を見せない日もあった。
それでも朝一さんの隣にいる時はいつも、どこか安心し切っているように見えた。
ある日、ユキさんは朝一さんの淹れたコーヒーを飲みたいとせがんだ。オレが喫茶店に来た時にコーヒーを飲んでいるのが、いつも気になっていたのだと言う。
「何だっけ? アルティメットサンダー何とかだっけ? ユキさんに出してあげなよ」
「だが、ユキは_____」
ユキさんには味覚や嗅覚は存在しない。それに、防水加工はされているものの、多量の水分を体内に入れるのは推奨されていない。
「いつまでこんなふうに動けるか分からないんだし、最後くらい好きなことをさせてあげた方が良いと思う」
なんて、オレの発言は無責任なのかもしれない。
だけど最終的には朝一さんも納得して、コーヒーを淹れ始めた。
湯気を立てるコーヒーカップに両手を添え、ユキさんはそっと鼻を近づける。香りを嗅ぐ素振りを見せ、それから恐る恐るとカップの端に口を付けた。
「ユキ、味はどうだい?」
不安げに揺れていた表情がほっと和らぐ。
「……はい、とっても美味しいです」
秋が過ぎ、冬が訪れる。
オレが生まれたこの季節に、ユキさんは眠るように息を引き取った。




