35.誕生日
深夜二時。草木も眠るこの時間に、オレは真っ暗な部屋の中でスマホを弄っていた。
階下では現在、親父とユキさんが二人きりで話している。物音は聞こえないが、オレはすっかり目が冴えきって、眠気の兆しが訪れる気配すらなかった。
親父もユキさんも、上手く話せてると良いけど……
親父が家に帰ってきた時、ユキさんはしきりに喜んでいた。
「今日はお祝いですね!」
そう言いながらキッチンに立とうとするユキさんを止め、オレは料理を作った。
「美味しいですか?」
といつものように尋ねてくるユキさんに、オレはいつものように頷き、親父は気まずげに頷く。
帰ってきてから数時間ほどで、親父もユキさんの挙動のおかしさに気がついたようだった。
そうして、ユキさんを朝一さんのところに行かせるのを納得してくれたのだった。
時間をチラチラと確認しながら、ネットサーフィンを続ける……ことができるはずもない。
親父に頼んだのはオレなんだ。当事者であるオレが、おちおち眠ってられるはずもなかった。
二人の様子を確認するだけ。それだけだ。
オレはベッドから起き上がり、こっそりと部屋を抜け出す。
そして、リビングに続くドアをゆっくりと、少しだけ開けた。
リビングの中は薄暗かった。キッチンの電話は消され、ダイニングの真上に取り付けられた小さな電気のみが、舞台のスポットライトのように二人の姿を照らす。
オレがこっそり覗き見をしていることに気がついた親父は、微かに唇の端を上げて黙ってオレに微笑みかける。オレに背を向けているユキさんは気が付かず、親父の手元に置かれたグラスに酒を注いだ。
「歩望さん。そろそろ、本当のことを話してくださいませんか? 私に大切な話があって家に戻ってきたのですよね?」
親父は曖昧に頷く。
「私の体のこと、ですよね」
「……知っていたのか」
「レイから話は聞いていましたから。それに最近、調子がおかしいことも、希くんが悲しそうな顔をして私を見つめることも、気がついていたんです。でも、どのように反応したら良いか分からなくって。希くんがいつも通り私に接するなら、私も気が付かないふりをするしかないと思うんです。私はそうすることでしか、希くんを傷つけない方法が分からないんです」
「そのように生きることを強いたのは私だ。君達には、本当にすまないことをした」
親父が頭を下げる。ユキさんはそれに対して何か声をかけ、頭を上げさせようとするが、親父は頑として動かなかった。
「息子はきっと、君のそのような態度に救われてきたはずだ」
「そうなのでしょうか……?」
「あいつが何も言わないということは、そういうことだろう。知らない振りを続けていた方が楽なこともある。本人にとっても、他人にとってもな。……そして、希にそういう生き方を選ばせてしまったのは、私の責任だ」
「でも、あなたも辛かったのでしょ? 大切な人を亡くして、その傷も癒せないまま仕事に子育てを続けるなんて、並大抵のことじゃないと思うんです」
「私が辛いなら、息子はもっと辛かったはずだ。……どうして私はそのことに長年気が付かなかったのだろうな」
親父は頭を上げた。複雑な感情に揺れる瞳が、オレを見つめる。
「すまなかった。そう言ったところで許されるとは思っていない。だが、私は……謝るしかない」
どうして今更、そんなことを言うんだよ。ずっとオレを避け続けてきたくせに、どうして今更。
オレはそもそも、謝られるようなことなんてされてないと、親父に期待なんてしてないと言ったはずだ。
「正直、何が正解だったのか今でも分からない。情けない姿を見せてでも、希のそばにいてやるべきだったのか。あるいは他人の助けを借りて私は傷が癒えるのを待つべきだったのか。一度親を頼りにしたこともあったが、あまり良い結果にはならなかった。家事を有希に任せきりにしていたせいで、ろくにあいつの世話もしてやれなかった。
そんな折に、ちょうど良く君が現れてしまったものだから……私は甘えていたのかもしれない。希が君に懐いているのを良いことに、それが最良なのだと考えて、全てを君に押し付けて、逃げるしかなかった」
親父は自嘲するように笑い、酒を一口飲み込む。
「すまない。私の話ばかりをしてしまった」
「いえ、そんな……でも、私……」
「慰めの言葉は必要ない。昔の話は終わりだ。これからの話をしよう」
親父は一息つくと、重々しく口を開く。
「君は、希に初めて会った時のことを覚えているかい?」
「ええ。覚えています」
「希から聞いた話の又聞きでしかないのだが、君は迷子になっていたようだな」
ユキさんと出会った時のことは、曖昧にしか覚えていない。
だが、舞い散る桜の下に立つユキさんが綺麗だと思ったことは、記憶に残っている。
感情のない瞳がオレを見つめ返していた。オレはその無機質で冷たい雰囲気が、不器用でどこか人を寄せ付けない母の雰囲気に似ていると感じた。
「君はあの時、どこに行こうとしていたんだ」
「……海を探していたんです」
「海を?」
「レイがこの国に来た時に、とても綺麗な海を見たのだと教えてくれたのが、とても印象的で。外に出られない私のためにレイが建物の中を青く塗ってくれたんですけど、それだけでは物足りなくて、本物の海が見たくなったんです。それで、こっそり外に抜け出して……それに、私達はお互いの記憶を共有できるから、私が行くことでレイにもう一度海を見せてあげたかった」
「そうだったのか」
「でも、今は満足してるんですよ? 海には行けなかったけど、外に出ることができたし、朝一さんに会うこともできましたから。私、希くんに拾っていただけて、とっても嬉しいんです。だから……こうなったってしまったこと、あの子には罪悪感を抱かないでほしいんです」
親父はユキさんの話に何度も相槌を挟む。
「君は、君だけの海を見つけることができたんだな」
「ふふ。素敵な表現ですね」
ユキさんは、クスクスと肩を震わせて笑う。
「私は真面目に言っている」
「ええ。分かってます。あなたは冗談を言うような性格ではないですもんね」
そう言いながらもユキさんは笑うのをやめないので、親父は不服そうに目を細める。
「……君は、ここにいるべき存在じゃない」
「え?」
「私は、有希が亡くなる時にそばにいてやれなかったことを後悔している。たとえ未来が変わらなかったとしても、そばにいることさえできていたら、私はこんなにも苦しむことはなかったかもしれない」
ユキさんが笑うのをやめる。
「幸か不幸か、君には猶予が残されている。行きたい場所があるなら、行くべきだ。君はずっと悩んでいるのだろう?」
「……希くんですか? 希くんが私に、朝一さんのところへ行くように言ったんですか?」
「違う。これは私の判断だ」
「本当のことを言ってください」
ユキさんは親父の服の袖を掴んでせがむ。
「希くんが、そう言ったんですよね?」
二人は目を見つめ合わせ、無言の会話を交わした。
ユキさんはゆっくりと手を下ろし、ため息を吐く。
「……私には、希くんを幸せにすることはできなかったんですね。私ばかり与えられてばかりで、あの子には何も……」
「そんなことはない。君のおかげで、私も希も、ここまでやってこれたんだ。本当に感謝している」
「いえ。私も分かっているんです。今の私では、支えになるどころか、希くんを苦しめるだけになってしまうって。……もう、潮時ですね」
ユキさんは頭を下げる。
「今まで私をここに置いてくださりありがとうございました。この家で暮らすことができて、私は幸せでした」
「……礼を言うのは私の方だ。今まで本当にありがとう。そして、すまなかった」
ユキさんは空いたグラスに酒を注ごうとする。それを止め、親父は自分で酒を注いだ。そして、それなりに度数の高いであろうそれを一息に呷った。
「歩望さん」
「何だ」
「ひとつだけ、私もワガママを言っても良いでしょうか」
「私にできることならば」
ユキさんの横顔が、微笑みを浮かべる。常夜灯のオレンジ色がユキさんに降り注ぎ、どこか冷たさを覚える白い肌に温かみを添える。
「これからはちゃんと、自分でお誕生日プレゼントを渡してくださいね?」




