34.鈍感
朝一さんの店を出る。家を出た時は澄み切っていた空を、今は重たい雲が覆っている。
今にも降り出しそうな様子に、親父の助言が脳裏をよぎる。
生憎と折り畳み傘すら持っていない。だが、学校に行く気にも家に帰る気にもなれない。
オレは公園に向かった。
時間的に小可さんはもうそこにはいないだろう。
今は何も考えずにのんびりと街の景色を眺めたい気分だった。
一番見晴らしの良い特等席に腰掛け、足元を見る。
ぽつぽつと降り始めた雨の雫がベンチを濡らし、オレの制服のブレザーに滲む。
昨日メッセージが入っていたようだが、確認していなかったのを思い出し、スマホを手に取る。
画面に映ったものを見て、オレは驚いた。
真丸な満月の写真。
そして追加で、
『綺麗だったので、高嶺くんにもお裾分けです』
とメッセージが付け加えられている。
オレは軽く息を吐いた。体から力が抜ける。
『月が綺麗ですね』
オレがそう送ると、数分経たずに反応が返ってくる。
『どっかで聞いたな、そのセリフ。アニメだっけ? それとも漫画? なんか有名なやつだよね』
『そのセリフ、夏目漱石が言ったと言われてますけど、実は漱石はそんなこと言ってないんですってね』
『ああ、そうだ! 夏目漱石だ! その名前、およそ十年ぶりに聞いたよ。で、それ、どういう意味なんだっけ? なんか意味あったよね٩(๑❛ᴗ❛๑)۶』
「……知らなくて良いよ、一生」
というか、小可さんなら調べないでいてくれるだろうと思ったから、オレはこんな冗談を言えるのだ。知られても困る。
上のメッセージには返事をせず、話題を変える。
『昨日は返事ができなくてすみませんでした。もう寝てたんです』
『全然良いよ。子供は寝るのと泣くことが仕事だからな』
『そこまで幼くはねえよ』
『俺にしてみればそんなに変わらない。幼稚園児も高校生も、みんな等しくガキだ』
碌に働いたこともない奴が、偉そうなこと言っちゃってさ。なんかムカつく。
『それより、どうだった? ユキさんの恋人さんに話付けにいったんだろ』
小可さんには事前に、ユキさんのことを相談していた。
小可さんは親身になって相談に乗ってくれ、困ったらいつでも連絡をして良いと言ってくれた。
オレは小可さんに頼りきりになっている。分かってはいるのだ。でも誰かに話を聞いてもらわなければ、苦しくて仕方なかった。
『ちゃんとユキさんと話し合えって言われちゃいました。オレの考え、見透かされちゃったみたいです』
『考え?』
『嫌なことからどこまでも逃げたいって考え。ユキさんのためを思っての決断だと思ってたんですけど、結局自分のためでしかなかったみたいです。オレってダメな奴ですよね』
どんなに現実から目を背けたとしても、いつかは向き合わなくちゃいけない時が来る。それが今なのかもしれない。
返事がぴたりと止んだ。娘さんの世話をしているのかもしれない。そう思いながらぼんやりと雨に打たれていると、突然スマホが震えた。
小可さんから電話が来たのだ。
「……もしもし」
『ああ、高嶺くん? 悪いな、電話して』
「全然大丈夫。全然暇だったから」
『今どこいんの? 外?』
「ええ。なんか、家に帰りたくない気分で……小可さんがいないのも分かってるのに、公園に来ちゃいました」
ここにいると、小可さんに連れられて銭湯に行った時のことを思い出す。
あの頃だって頭はぐちゃぐちゃで、だけど今よりはマシだったかもしれない。
小可さんのことを信じても良いと思えたのもあれが切っ掛けだった。
この人はオレを裏切らないような、そんな気がした。
あんたがオレにしてくれたこと。
全部、嬉しかったんだ。
『……なあ、高嶺くん。これは俺のしょうもない戯言だと思って聞いてほしいんだけど』
「何?」
『良かったら、オレの家に来てみる……?』
驚いて返事ができないオレに、小可さんは言葉を続ける。
『実は奥さんにも色々話してたんだ。あ、もちろんユキさんのあれこれは伏せてな。そしたら、うちで預かるのもひとつの手じゃないかって。あいつ、お前のことかなり心配してたよ』
小可さんの家に行く? オレが?
『お前の意見が聞きたいんだ。お前はどうしたい?』
小可さんがそこまでオレのことを考えてくれたことも、小可さんの奥さんにオレの存在が否定されなかったことも、あの家に帰らなくて済むことも。嬉しくないわけがなかった。
きっと楽しいだろう。家に帰ったら小可さんがいて、小可さんの奥さんがいて、娘さんがいて。
誰かと一緒にご飯を食べて、学校で起きた、くだらないことをつらつらと喋って、人の気配を感じながら眠りについて。
テレビの中でしか見たことないような理想の「家族」がそこにある気がした。
でも……。
小可さんの指に光る銀色の指輪。小可さんから何度も聞かされた惚気話。
母さんがいなくなってから、全てを塗り替えられてしまった部屋。
『君は私以上に頼るべき人がいるはずだ』
朝一さんはそう言ってオレの頭を撫でた。
『どこかで時間を潰してくる。何かあったら連絡してきなさい』
そう言って家を出た、親父の寂しげな背中が忘れられない。
だから。
ゆっくりと息を吸って、頭の中をクリアにして。今にも喉から飛び出そうな言葉を押さえつけ、言わなければならない言葉を吐く。
「……小可さんがそう言ってくれて嬉しいけど、オレ、小可さんの家には行けない」
オレが言うと、小可さんは少し寂しそうに笑う。
『そうか。分かった。でも、困ったことがあったら_____』
「うん。頼りにしてる」
電話の向こうで、「パパ」と名前を呼ぶ幼い少女の声が聞こえる。
「娘さんが家にいるんだろ。今はオレじゃなくて、娘さんに構ってやりなよ」
「……ああ。分かってるよ」
とかなんとか言いながら、小可さんは電話を切りづらそうにしている。オレから別れの挨拶をしなくちゃいけないみたいだ。
娘さんが、もう一度小可さんを呼んでせがむ。
「小可さん」
『……分かってるけど』
「オレは大丈夫だから」
あなたという味方がいるから、オレは頑張れる気がする。
「また今度連絡する。あんま心配すんなよ」
「……おお」
オレは小さく息を吸った。
「ありがとう、一縷さん」
電話を素早く切る。
深く息を吐き、祈るようにスマホを額に合わせる。
ガラスの、ほんのりとした温かさに心を落ち着かせて、オレは通話の画面を開く。
ワンコール、ツーコール……呼び出し音が三回鳴り、通話が繋がる。
『どうしたんだ』
痛みを訴える頭を押さえながら、オレは意を決して口を開く。
「助けてほしいんだ……父さん」




