33.懇願
カーテンのかけられていないカフェのすりガラスから、さんさんと太陽の光が降り注ぐ。ロック音楽をかけさせるのはもちろん阻止した。代わりに、動画サイトで「オルゴール」と検索して一番最初に出てきた動画をスピーカーから流している。それが一番、「リラックス」に近いと判断したからだ。
はっきり言って、これは失敗だった。一時期学校の勧めで行かされていたカウンセリングやら精神科やらの雰囲気を思い出して、気分が悪くなった。
でも、ロックだけは絶対に嫌だ。絶対に。
朝一さんはオレの話を頷きながら聞き、オレが話し終わると黙り込んだ。
コーヒー一杯で何時間も粘る迷惑な客のように、これでもかというくらい贅沢に時間を使い、満足したのか口を開く。
「……なるほど。それで君は私のところに来てくれたのか」
今日この店にやってきたのは、他でもない、ユキさんの話だ。
ユキさんと一緒に暮らすつもりはないか。
オレはそう直談判をしにきたのだった。
予想していたよりも、朝一さんの反応は芳しくなかった。それどころか、ユキさんの正体を明かしても、驚きもしない。
ユキさんから既に聞いていたのだろうか。だとすれば、ユキさんは朝一さんにかなりの信頼を置いていたことになる。
「私は、はっきり言って賛成できない。君はまだ未成年者であり、保護者が必要な立場だ。ユキさんを君から引きはなすようなことはしたくない」
「引きはなすなんて、そんな。ここは家からそんなに遠くないし、それにオレ、ユキさんがそう望むなら毎日ここに来ますよ」
「ユキさんは何と言っているんだい?」
「あの人にはまだ言っていません」
「なぜ?」
「きっと、悲しむから」
オレは朝一さんに頭を下げる。
「お願いします。朝一さんからも、ユキさんがここで暮らすように説得してくれませんか。それがユキさんにとっても一番良いんです。オレみたいな奴と暮らすより、好きな人と一緒にいる方があの人は幸せになれるんです」
朝一さんは深いため息を吐き、額に手を当てる。
「そういう考えは良くないよ。君が、あの子の幸せを一方的に決めつけるべきじゃない」
「でも、朝一さんはユキさんと暮らせるなら暮らしたいですよね?」
「君から奪ってまで、あの人を自分のものにしようとは思わない。良いかい? まずは良く話し合うべきだ。ユキさんにちゃんと君の考えを話して、それでユキさんが納得してくれるなら、私は彼女をここに置いても構わないよ。だが、君一人の一方的な意見を聞いて、はい分かりましたと了承するつもりはない」
朝一さんは優しく、しかし突き放すように言う。
「それに、もし何も言わずにユキさんをここに連れてきたとしよう。ユキさんはどう考えると思う? きっと、こう思うはずだ。自分は見捨てられたんだ、って」
衝動のままに家を飛び出した日のことを思い出す。
「朝一さんのところに行きたいか」と尋ねると、ユキさんはぽろぽろと涙を流して泣いた。
あの時のことがあるから、オレはユキさんに何も言い出せない。ユキさんが悲しむことが分かっているから。
「それは、君の望むことではないだろう?」
朝一さんの落ち着いた声を聞いていると、だんだんと別の考えも浮かび上がってくる。
オレは本当に、ユキさんのためを思ってこんなことを言っているのだろうか。ユキさんの幸せを願っているから、朝一さんに全てを託そうと思っているのだろうか。
……いや、違うだろ。
オレは純粋な善意で行動したことなんて一度もない。全ては見返りを求めてのことだ。
ユキさんに愛してもらいたいから、優しくしてきた。
そして今は。
「……すみません」
オレが辛いから、引き離そうとしている。
「もう限界なんです」
オレはもう一度、更に深く頭を下げた。下げるしかなかった。朝一さんの顔が見られなかった。
「ユキさんと一緒にいると、苦しいんです」
オレの作った料理を自分が作ったかのように振る舞い、毎日同じセリフを繰り返し、自分の異変に気がついていないユキさんをこれ以上見ていたくない。
だけど、ユキさんと過ごした日々の記憶を消すことはしたくなかった。
どんなに応急処置をしたところでユキさんが朝一さんを好きでいる限りは、ユキさんが治ることはないのだ。
もしこのまま記憶を消し続けていたら、最後にはオレの存在そのものがユキさんの中から消えてしまうだろう。
それだけは嫌だ。
ユキさんだけは、オレを「いないもの」として扱わないでほしい。
全てはオレのわがままだ。
ユキさんに忘れられたくなくて、だけど一緒にいるのは辛いから。
距離を置きたかった。
「お願いです……助けてください」
オレは初めて、家族以外の誰かに自分から助けを求めた。
ユキさんのことを幸せにできるのも、助けてあげられるのもオレではない。
親父が母さんを愛し、ユキさんが朝一さんを愛したように。小可さんが家族を大切にするように。
オレは誰の一番にもなれなかった。
「希君。顔を上げなさい」
朝一さんに呼びかけられ、ゆっくりと視線を上げる。
「君の気持ちを聞かせてくれて、ありがとう。でも、私はやはりすぐに頷くわけにはいかないんだ」
朝一さんは優しく笑い、オレの頭に手を伸ばしてくる。
「君は私以上に頼るべき人がいるはずだ。今言ったことを正直に話してみなさい。きっと、力になってくれる」
頭を優しく撫でられ、胸の奥から突如として迫り上がってくる衝動に歯を食い縛って耐える。
笑わなければ。
でも、どうやって? 誰ののために?
「……もし、助けてくれなかったら?」
「その時はまた一緒に考えよう。いつでもここに来れば良い。君のために店はいつでも開けておくよ」




