32.喫茶店
また、変わらない朝がやってくる。
「美味しいですか?」
「ええ、とても」
「そうですか。そう言ってもらえて嬉しいです!」
ユキさんに見つめられながら朝食を摂り、
「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」
床に一度落ちてしまった弁当袋を受け取り、
「行ってくるな、母さん」
母さんの写真に挨拶をして家を出る。
空は青く澄み渡り、小鳥の囀りが長閑な朝の風景に彩りを加える。
オレのそばを無邪気に駆け抜けていく、ランドセルを背負った小学生の集団。
狭い道をゆっくりと通る車と、小脇に避ける自転車。
少し先にはゴミ捨て場がありカラス避けのネットが掛けられているもののあまり効果はないのか、時折ゴミが地面に散乱していて、皆はそれを器用に避けながら何事もなかったかのように歩いていく。
開いているのか閉まっているのか分からない寂れた商店街、木々に覆われて晴れの日も薄暗い神社の小道、やかましく吠える犬のいる家、スーパーが潰れた後に立ったファミリー向けのマンション。
学校までの道を思い浮かべて、ため息を吐く。
とてもじゃないが、学校に行く気分にはならない。
何より最悪なのは、朝になると送られてくる親父からのメールだ。
『午後は雨が降るそうだから、忘れずに傘を持っていきなさい』
苛立ちが募るのは、宿題をしろと言われた子供の心理みたいなものか、それとも今更父親面をして命令してくるこの男に嫌気が差したからか。
どちらにせよ、このメールはオレの憂鬱な気持ちにとどめを刺した。
まあ、そもそもの話、オレは端から学校に行く気なんてなかったのかもしれない。
最初から意思は固まっていて、そこに適当な理由を肉付けしていくのはオレの常套手段だ。
世界を破滅させんと目論む魔王を倒すために冒険の旅に出る?
小可さんに会いに公園に行く?
図書館に行けば、レイは今日もそこにいるのだろうか?
あらゆる可能性が頭を駆け巡り、その全てにバツ印を付ける。
今日行く場所は決まっていた。
踵を返し、学校とは正反対の方向へと向かう。
××××
朝一さんの経営しているカフェは住宅街にひっそりと隠れるような場所にある。
店を訪れると、耳をつんざくような騒音が聞こえてきて、思わず耳を塞ぎたくなった。
オレにしてみれば、数百万の価値があるエレキギターの音色も、黒板を爪で引っ掻く音も、総じて「騒音」だ。
「朝一さん」
返事はない。
「おい、聞いてんのか」
「……」
カウンターの向こう、客からも見える位置に置かれたキッチンで呑気に皿を洗っている背中を睨みつける。
とりあえずこのうるさい曲を止めよう。
店内の位置どり、何処に何があるか、なんてのは既に把握している。キッチンから少し離れた場所に置かれたチューナーのスイッチをオレは押した。部屋を支配していた音が止み、静まり返った室内には、男の呑気な鼻歌が響いた。
「朝一さん、オレここに来る度思うんですけど、喫茶店にあのロックな音楽は合わないと思います。あと、その格好も」
ワンテンポ遅れ、朝一さんは不思議そうな顔をして振り返った。
「やあ、誰かと思えば、高嶺さんとこの息子くんじゃないか。おはよう。今日はとてもいい天気だね。こんなにいい天気だと、思わずロックな曲をかけたくなってしまうね」
「そう言って晴れの日も雨の日も、いっつもロックばっかりかけてるじゃないですか」
「はは。そうだったかな?」
「そうだったかな、じゃありませんよ」
こんなんだから、開業から数年が経っても常連客ができないんだ。
「まあいいじゃないか。それより、今新発売のコーヒーの開発をしてるんだけど、一杯どうだい?」
「タダなら飲んでやってもいいですよ」
「もちろんサービスしよう。さあ座って座って。あ、荷物は隣の席に置いてくれていいからね」
促されるままにカウンターへ座らされる。朝一さんは、さっきまでかけていた曲の鼻唄を歌いながら、嬉しそうにコーヒーを入れている。
朝一瞬。年齢は恐らく三十代半ば。
赤毛の髪を肩まで伸ばし、室内にも関わらずレザージャケットとデニムのジーンズを着用したこの人は、80年代のロック音楽をこよなく愛する変人である。
喫茶店を経営しているが売れ行きは好調とは言えなかった。
店の雰囲気は悪くない。悪い性格ではない。
だが、喫茶店を経営するために必要なもの、例えば立地や料理技術や選曲センスや人脈、なんてものが致命的に欠けていた。
だから、ここはいつ来ても開店休業状態。思わずオレも同情してしまうくらい客が来ない。
オレとしては非常に都合が良い。いきなりやってきてもこうして、対応してもらえるのだから。
「お待たせ、私特製スペシャルコーヒーだ」
す、とテーブルにコーヒーが置かれる。
「作品名は?」
「私のコーヒーを作品と言ってくれるなんて、君もなかなかお目が高い」
朝一さんは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「そうだな……闇夜を切り裂く太陽の雷! アルティメットサンダーレッド!なんてどうだろうか」
匂いを嗅いでみて、問題がないことを確認すると、一口飲んでみる。
「どうだい?」
「前よりは美味くなってる。ただちょっと後味の苦味が強すぎる」
「苦いか……」
「あと名前が長いし恥ずかしい。目は引くかもしれないですが、メニュー表に載ってても頼む人はいないと思いますよ」
「もちろん後で名前は変えるさ。でも、戦隊モノみたいでカッコよくない?」
「ダサいっす」
「そうか、ダサいか……じゃあ、どうしたらもっとお客様を呼べるメニューになると思う?」
「オレに聞くのか」
「うん。なんたって君は私の店のお客第二号。そして今現在唯一のお客様だからね」
オレの予想以上に客が来ていない。なんで潰れないんだこの店は。
朝一さんと言い小可さんと言い、オレの周りにはぼっちの大人が多いようだ。残念ながら、オレは二人を馬鹿にできるほど交友関係は広くないのだが。
学校でも腫れ物扱いだしな。
「私はお客様を大切にしたいと思っている。だから君の意見はもっとお店の経営に反映させたいんだ。この店のために、少し協力してくれないかい?」
「協力するのは構いませんが、もちろん俺に利はあるんですよね」
「それは勿論。私がセレクトした80’sベストロックアルバムを進呈しよう」
「いらねぇ」
「まあまあ遠慮しないで。あ、コーヒーもう一杯いる?」
「いらない。自分で作るんで厨房貸してください」
「あ、じゃあ私の分も一杯作ってくれるかな。君の作るコーヒーは私のより断然美味しいからね。好きなんだ」
あんたはもう少し自分の立場にプライドを持てよ。
日当たりの良い席にコーヒーを二つ置く。朝一さんはオレが戻ってくるまで待っていて、オレが座るのを確認した後にカップに口をつけた。
そして、目を見開く。
やべ、つい悪戯心でその辺にあった塩を入れたの、やっぱりバレたか。少ししか入れてないんだけど。
「希君、これ……」
「あー、不味いなら入れ替えてきますけど」
朝一さんは首を振る。そして、自分のカップをオレの方に近づけた。
「少し飲んでみてほしい」
「いや、でもこれ_____」
「良いから」
朝一さんらしからぬ押しの強さにたじろぎつつ。言われた通り、少し飲んでみて、びっくりした。
「普通に美味しい……」
「そうだろう!」
「でも何でだ?」
普段オレが作っているコーヒーよりも酸味や苦味が減って、柔らかな風味がある。初めてコーヒーを飲む人でも飲みやすいような味だ。
スマートフォンで検索してみる。
「えーっと……? コーヒーに塩を入れるのは案外海外では普通みたいですね。塩には酸味や苦味を抑える効果があるため、酸味の強いコーヒー豆を栽培する地域では、コーヒーに塩を入れる伝統がある、か。へぇ……」
「凄いじゃないか、希君!」
「え?」
朝一さんは拳を握りしめ、喜びに打ち震えている。
「コーヒーに塩を入れるという発想、私には全く思いつかなかった……っ! やはり君に協力を頼んでよかったよ! 早速メニューに加えなくては!」
「はあ……」
そこまで感謝することか。
朝一さんは、オレの手をガシッと掴む。
「本当にありがとう! この店、ひいては僕の命は君の手にかかっているも同然だ。これからも、何卒私のためによろしく頼むよ」
重てえよ。期待が。
朝一さんは悪い人ではない。
だからこそ余計に、劣等感を煽られて、むしゃくしゃするのだ。
もしもユキさんを介在せずに出会っていたら、それこそ小可さん程度には仲良くなれていたのかもしれない。
いや、無理か。オレがこんな性格じゃな。
朝一さんはカップに残った最後の一滴を飲み込み、上品な仕草でソーサーにカップを置く。
「さて。コーヒーも飲み終わったことだし。ここに来たということは、話があるんじゃないのかい? それもかなり深刻なようだ」
オレが頷くと、朝一さんは一度店の外に行き、掛け看板を「open」から「closed」へ変え戻って来た。
「そういえば知っているかい?音楽を聞くと、リラックスの効果があるそうだよ。と、いうわけで。私オススメのロックをかけてあげよう」
「させねぇよ」
ロックミュージックでリラックスできる奴がいるとしたら、そいつの自律神経はバグっているに違いない。




