31.決断
メンテナンス室を出て、隣の部屋に案内される。
その部屋もまた、壁、天井、床の全てが青で塗りつぶされていた。
二人分のベッド。二人分の椅子。片方のベッドの上に置かれた、レイには似つかわしくないティディベア。青にまみれた部屋の中でそのティディベアのみが白く、晴天に一筋浮かぶ雲のように、目を引く。
レイは一度部屋から出ていくと、一人分のティーカップを手にして戻ってきた。ティーカップを机の上に置く。白い陶器の中に注がれた液体は、想像通り絵の具を混ぜたような鮮やかな青色をしていた。
「このお茶にはアントシアニンという成分が含まれています。体の酸化を抑え、老化防止の効果があるそうです」
「……へぇ」
「飲みますか?」
「飲まねえ」
このタイミングでそんな話をしてくるなんて、喧嘩を売ってるとしか思えない。
「そうですか」
レイはティーカップを手に取ると、オレの代わりに飲み始めた。
飲み込むたびに喉仏が上下する。レイもまたユキさんに似て顔の造形は整っているが、どちらかと言えばレイは男性寄りの容姿を持っている。
美男子というものは、お茶を飲む仕草すら優雅で様になるらしい。
「で、オレに何の用なんだ」
いつまで経っても本題に入ろうとしないレイに、オレの方から話を促す。
「刹那さんに聞かれると不味い話でもあるから、オレをここに呼び出したんだろ」
レイは満足そうに頷く。
「話が早くて助かります。実は、あなたにひとつ提案がありまして」
「提案?」
「モモの寿命を引き延ばす方法について心当たりがあると言ったら、あなたはどうしますか?」
一瞬、言われた言葉がすぐに頭に入ってこなかった。
「寿命を引き延ばす方法……? それって、ユキさんとまだ一緒にいられるってことか?」
「はい。ですが、それにはひとつ条件があります。その条件というのが_____」
レイの両肩を掴む。
「そんなの、聞かなくたって答えは同じだ。ユキさんを助けてくれ、頼む」
ユキさんの寿命を少しでも伸ばせるなら、オレは何だってする。それこそ、オレの命を引き換えにしても、悪魔に魂を売ってやっても良い。
レイは、オレの手に自分のものを重ね、軽くつねる。
「高嶺さんは、恋をしたことがありますか」
囁き声でそう問いかけられ、背筋をくすぐられたような微弱な悪寒が走る。
「その人に出会った瞬間、世界がまるきり変わったように、キラキラと輝いて見えるそうです。その人のことを考えると胸が苦しくなって、だけど嬉しくもあって。会えたら嬉しくて、会えなかったら切なくて……そして、イーサが痛む」
レイは胸元を押さえる。
「モモはそう言っていました。アサカズさんのことを考えるとここが痛むのだと。それが恋なのだと、ボクに教えてくれました。ボクはこれまで、イーサを劣化させる様々な方法について考えてきましたが、感情がイーサに影響を及ぼすなど、思いもしませんでした」
「まさか……ユキさんが倒れた原因は」
レイは頷く。いつも無表情のこいつにしては、妙に生き生きとしているように見えた。
「恋愛感情でしょう」
乾いた笑いが、オレの喉からこぼれ落ちる。
嘘だ。そう言ってしまいたかったが、整合性を求める頭が、必死になって過去の記憶を掘り起こす。
ユキさんが朝一さんと出会ったのは、いつだった?
ユキさんは、いつから失敗ばかり繰り返すようになった?
元々あのような人ではなかったのだ。オレの知る限り、出会ったばかりの頃のユキさんはもっと冷たくて、無表情で……そうだ。レイにそっくりだった。
「どうして、そんなにショックを受けているのですか? イーサの劣化の原因を見つけたということは、それを食い止める方法が見つかったも同然なんですよ。もっと喜ぶべきじゃないのですか?」
まさに今、人の心がない男に、不思議そうに問いかけられる。
こいつには、オレの気持ちなんて一生分からないだろう。レイの言動はどこまでもオレをイラつかせるが、そこに他意はない。
オレのぐちゃぐちゃとした、自分本位で醜い感情なんて、理解できるはずもない。
「……条件を教えてくれ。どうすれば、ユキさんの寿命は伸ばせるんだ」
レイはオレの手をやんわりと引き離し、再び、ティーカップを手に取る。そして、わざとらしくゆっくりと中身を飲み込んだ。
唇の端に僅かに残った雫を近くにあったハンカチで拭い、レイはオレに向き直る。
「アサカズさんに関する記憶を消すんです」
レイは、予想通りのことを言った。
「そして、二度と誰のことも好きにならないように、家の中に閉じ込めてしまえば良い。そうすれば、モモはしばらくの間は生きながらえることができるでしょう」
「それだけで良いのか」
「それで十分です。ああ、それと。実を言うと、ここ一か月のモモの記憶はボクが今保有しているんです。アサカズさんに関する記憶を消した暁には、モモの元にお返ししますよ」
朝一さんの記憶を消し、ユキさんの寿命を延ばすか。
あるいは朝一さんの記憶は消さないが、ここ一か月の記憶を消すか。
「高嶺さんはどちらを選ばれますか?」
レイの空色の双眸がオレを真っ直ぐに見つめる。
××××
家に帰り、帽子とマスクを外したユキさんはいつになく楽しそうだった。
オレの知らない鼻歌を口ずさみ、台所へと小走りで向かう。
『ユキさん、お帰りなさい』
テキパキと夕食の準備を進めるユキさんの背中にそう投げかけると、ユキさんは振り返り、花が咲くような眩い笑顔を見せた。
『ただいま、希くん』
ユキさんのそんな笑顔を見るのは初めてだった。
『ね、聞いてください、希くん! 今日とっても素敵な人に出会ったんです!』
頬が桜色に染まり、ヘイゼルの瞳の中でいくつもの星が瞬き、チラチラと目を霞ませる。
その瞬間、世界がガラリと変わった。いや、変わったのはオレの方かもしれない。春の訪れを告げる嵐のように、その衝動はオレの全てを塗り替えてしまった。
母親の代替でしかなかったはずのその存在を、一人の人間として認識する。
オレは、ユキさんに恋をした。
オレではない別の男に恋をしたユキさんを、好きになってしまった。
××××
「それにしても、びっくりしちゃいました。転んだ拍子に一か月分の記憶を消しちゃうなんて、私もお馬鹿ですね」
「びっくりしたのはオレの方ですよ」
帰りのバスを待つ。
地平線に向かって真っ直ぐ長く伸びていくふたつの影が重なってひとつになると、オレの脳裏に、日傘を差したユキさんの姿が浮かび上がった。
昨日の出来事なのに、遠い過去を振り返るような懐かしい気持ちになる。
「心配させないでくださいよ」
「ごめんなさい。これからは、ちゃんと足元にも気をつけますね……でも私、流石に何もないところで転ぶほどドジじゃなかったと思うんですけど……」
「朝、転んで盛大に弁当をひっくり返したのはどこの誰ですか」
「え? 何の話ですか?」
ユキさんはこてりと首を傾げる。
「……いや、何でもありません」
しばらく他愛もない話をしていると、バスがやってきた。先に乗り込み、ユキさんに手を差し出す。
「お手をどうぞ、ユキさん。このバスが最終便ですからね、こんなところで転んで、また記憶がなくなったたら困ります」
「希くんの意地悪」
頬を膨らませながら、ユキさんがオレの手をしっかりと握りしめる。
「ありがとう、希くん」
ユキさんの手は温かくて、柔らかくて。オレは無性に、子供のように泣いてしまいたくなった。




