24.崩壊
海を歩き回り、付近を散策しているうちに、時間は穏やかに過ぎていった。海辺に沈みゆく夕陽を右手に、車は来た道を戻っていく。
ユキさんは今日一日はしゃぎ回っていたことで疲れが溜まったようで、こてりと頭を車体に預け、眠りこけている。
車がガタガタと揺れる度に、小柄な体は上下に揺れ、後頭部を何度かぶつけている。見ているこちらが痛くなりそうだ。手を差し伸べかけ、指先が触れる直前で引っ込める。
ユキさんは当分目覚めないだろう。だが、もし目覚めたら。いや、目覚めなかったとしても。体を支えてやるという些細な行為に罪悪感を抱く。
何の気なしに、というのがオレにはできない。触れてしまえば、そこに勝手に理由を見出そうとする。優しさ以外の何かを。
「あっという間だったな」
ユキさんを起こすまいと、小可さんは普段より声のトーンを落として囁く。小可さんの優しさはオレとは正反対で、実にさりげない。たったひとつの行動から、普段の様子が伺えた。自分の子供を寝かしつける時も、こんな優しい喋り方になるんだろう。
「今日はありがとうございました」
オレも釣られて声を小さくする。聞こえないかもしれないと思ったが、小可さんの耳にはバッチリ届いていたようで「どうも」と軽い声が返ってくる。
「海、楽しかったか?」
スマートフォンには、小可さんが撮った写真が収められている。カメラ目線でピースを送るユキさんと、無表情、あるいはふざけた顔のオレ。いかにも「無理やり連れてこられました」という面をしている。
楽しかった。と、思う。感情が鈍化しているわけではない。こういう時、必要以上に感情を動かさないようにブレーキをかけてしまうのだ。
海は、楽しみ方の正解が用意されていない。オレが何をどう感じていようとオレの自由だ。有り体な言い方をすれば、都合が良かった。
「はい、それなりに」
正直になろうとすると、憎たらしい物言いしかできなくなってしまう。だが、小可さんは大して気にした様子でもない。
「俺も楽しかったよ。久々に海に来れたし、さほど人も多くなかったから自由に過ごせたしな。でも結局はさ、どこに行くかより、誰と行くかの方が大切な気がする」
西から差し込む斜陽が、小可さんの黒い髪を黄色く照らし出す。野暮ったく伸ばされた髪がふわふわと綿毛のように揺れた。
「今日は誘ってくれてありがとな。俺が海に連れていこうかって言ってたの、覚えてくれてたんだな」
小可さんを連れ回したのはオレの方で、何故お礼を言われたのか分からない。返事に窮しているうちに、話題はコロコロと変わっていく。
窓枠に頬杖をつき、外を見る。やがて夜がきて、海は大きな怪物に飲み込まれたように、あるいはそれ自体が怪物であるかのように真っ暗になる。
ついでにオレの感傷的な気分も連れ去っていってくれれば良いものを。
夜が来る。一人でいるよりも、誰かと一緒にいる時の方が身動きが取れなくて苦しくなる。それはユキさんが相手でも例外ではない。
でも不思議と、小可さんと一緒にいる今は、胸を締め付けるような苦しさは訪れなかった。
「ユキさんに、思い出を作ってほしかったんです」
口から、ぽろりと言葉が落ちる。それまで何の会話をしていたのか思い出せない。小可さんは喋るのを辞め、黙って続きを促す。
「ユキさんはオレのためにいつも尽くしてくれました。だから、恩返しをしたかったんです。いつも迷惑をかけてばかりだった。学校にも碌に行ってなかったし、友達も作らなかったから心配させてたし。オレの性格はこの先も変わることないでしょうから、せめて、大丈夫だってとこを見せたかった」
オレは今日、ユキさんのためになることをできていただろうか。
信号が赤になる。俯いて再び動き出す時を待っていると、視界がふっと暗くなり、頭に重さが加わる。指先がオレの髪を掻き分け頭に絡みつくように掴まり、揺さぶるという表現がぴったりの動きで、頭を撫でられる。
「これが最後、みたいな言い方をするなよ。親になれば分かるよ。恩返しなんて必要ない。ただ生きていて、元気でいてくれるだけで幸せなんだよ」
「そうじゃない親もいる」
「ユキさんはそういう人じゃないだろ?」
ぎゅっと、指が頭を圧迫する。マッサージを何度か繰り返し、小可さんの指が離れた。血が巡り、ふわふわと温かい気持ちになる。
出会ってまだ一日も経っていないけれど、小可さんがユキさんのことを認めてくれるのが嬉しい。
「ま、またどこかに行きたいってなったら俺を誘えよ。暇な時は付き合ってやるからよ」
「……はい」
車が動き出す。
この時間が永遠に続けば良いのにと願った。
小可さんの奥さんと子供には悪いと思うけれど、あの酸素の薄い家に戻るくらいなら、このままどこまでも連れていかれたい。
本気で頼めば、小可さんはオレの願いを叶えてくれる気がした。だから、頼めなかった。他人の人生を奪う勇気はオレにはない。
××××
車はやがて家の前に到着する。ユキさんを起こしてやろうと肩に手をかけ、その冷たさに驚いた。
「……高嶺くん?」
きいん、と耳鳴りがした後、近づいてくる足音のように、心臓が強く音を立てた。
口内が急速に乾いていく。口を開いたはずが、何を言おうとしていたのか思い出せない。
起きてください。家に着きましたよ。すっかり寝てましたね。
脳内に散らばっていた様々な言葉は一瞬で消え、全てが真っ白になる。
「ユキさん」
どうして。
「ユキさん!」
どうしてだよ。
「なあ、嘘だろ? ちょっと眠ってるだけだよな? なあ、おい」
少なくともあと五年は持つはずだって、あいつは言ってたじゃねえか。
膝の上に置かれた手を握りしめる。どんなに熱を分け与えても、ユキさんは決して目を開かなかった。




