16.初恋
朝の五時。起きるには少し早い時間かもしれないと思ったものの、一度目が覚めてしまうと上手く寝付けなかった。
昨日帰ってきたのが夜の十二時だから……五時間か。ま、それなりに睡眠は取れてるか。
キッチンで朝の支度を済ませていると、リビングから物音がした。人が身動ぐような小さな音。その音が聞こえた刹那、ガタリと椅子を引く音がする。スリッパが慌ただしく床を駆け、玄関に走っていった。と思えば。階段を登り、すぐさま降り、ウロウロと途方もなく彷徨っている。
「希くん、どこにいるんですか……」
寂しそうな声が聞こえたので、オレはそれとなく物音を立てた。すると、ユキさんが物凄い勢いでキッチンの扉を開けた。
「希くん!」
なんて嬉しそうな声を上げるのだろう、この人は。
オレを見た途端、目にじわじわと涙を浮かべ始めるユキさんを見て、笑いそうになる。
「おはようございます、ユキさん」
「おはようございます、希くん……じゃなくて!」
ユキさんは小走りでオレの元に駆け寄ってきた。頬を膨らませ、ご立腹の様子。
「もう、希くんの馬鹿! 心配したんですから!」
「ごめん、ユキさん」
「もう、もう、もう……!」
ユキさんがポカポカとオレを殴る。一応手加減はしてくれているようで、あまり痛くなかった。
「バカーーー!」
いつになくユキさんは大声を上げた。最後の一撃、ユキさんの拳がオレの腰骨に命中する。
「ぐっ……」
「あ、ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか」
「え、ええ。まぁ、なんとか。おかげで眠気が取れました」
馬鹿力が健在のようで何よりだ。もはやユキさんの悪気なき暴力が朝の恒例となりつつある。
「ところで希くん。キッチンで何をしてるんですか?」
ユキさんは、オレの格好に首を傾げる。
「朝飯を作ってるんです」
「どうしてお料理を?」
「まぁ、その、練習みたいな?」
「練習? お料理の授業があるんですか?」
「そんなところ」
ユキさんは、ぱぁっと顔を輝かせた。
「学校に行くんですね!」
「流石に行かないとマズいかなって思って。それに……いい加減学校に行けって、友達がうるさいんで」
ユキさんはうんうんと頷く。
「立派です、希くん。学校の皆さんにも逞しくなった姿を見せてあげてください。きっと感心してくれますよ」
「だと良いけど」
「大丈夫ですよ。きっとみんな希くんが来てくれたことを喜んでくれます。だって希くんは世界を救う勇者なんですから」
「その設定、いつまで続けるつもりですか?」
「え? 設定? なんのことですか?」
「……え?」
マジかよ。まさか、オレに話を合わせてたわけじゃなくて、本当にオレが世界を救ってるとでも思ってたのか?嘘だろ?
「……っはは」
ユキさんが頬を膨らませる。
「どうして笑うんですか」
「だってさ、普通信じないでしょ! あんなバカなこと」
「だから、何の話をしてるんですか!」
「あはははっ!」
「もう、笑わないでください!」
ああ、お腹が痛い。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
ユキさんって可愛いな、ホント。羨ましい。
「ユキさん」
「……何ですかぁ」
不機嫌そうに、だけど返事をしてくれるユキさん。そうだ。オレは、こんな生活を望んでいた。
何でもないことで笑って、怒って、時間が過ぎるのも忘れてしまうような日々を望んでいた。
鼓膜に深く突き刺さる秒針の音に耳を塞ぐ必要もなく、真っ黒に塗り潰されていく部屋から逃れるように目を瞑ることもしなくて良い。ただ、あるがままに、あるがままを。平穏に過ごしたいだけなんだ。
いつか訪れる、終わりの日まで。
「あなたは、そのままでいてくださいね」
「ふぇ?」
ユキさんは首を傾げた。ちょうどその時トースターに入れていたパンが焼けた。
オレの初恋は、ひっそりと終焉を迎える。




