15.後悔
喉仏が上下する。
「……ぷはっ」
大きく息を吸い。
「くぅ~染みるぜー」
目をギュッと瞑り。
「この一杯のために生きている!」
を、フルーツ牛乳でやる小可さん。
「やっぱあんたっておっさんくせえよな」
「高嶺くんもやってみなよ、けっこういけるから」
飲みかけのフルーツ牛乳を渡されるので、断固拒否する。
オレは人が口つけたものに触るのは嫌いなんだ。
「コーラがあるんで結構です」
「ああ、そう」
小可さんはオレに渡そうとしたフルーツ牛乳を再び飲み始めた。腰に手を当て、ラジオ体操のように。オレは周りを見回す。
「どうかした?」
「ちょっとスマホ見てもいい?」
「別に俺に許可取らなくても勝手に見ればいいじゃん」
言われてみればそうだ。なんで小可さんに尋ねたんだか。
オレは自販機の前にいる小可さんから少し離れ、休憩スペースに腰を下ろした。
スマホの電源を入れる。
「……うわあ」
予想通り、自宅からの不在着信が大量にきている。その中に混じって、ひとつだけ別の電話番号が混じっていた。
これは。親父の番号だ。
オレは迷いつつも、親父に電話をかけ直した。
「……もしもし」
『……ああ』
夢の中で何度も聞いた声が、そこにある。
「父さん、オレだけど」
『……』
ため息。
『何か用か』
用って。
「電話をかけてきたのはそっちの方だろ」
『そうだな』
「父さんこそ、オレに何か用事があるの?」
『……ユキが、心配してたぞ。出かけるのはいいがちゃんと連絡はするべきだ』
分かってるよ。そんなこと。
「用はそれだけ?」
『ああ』
「なら、もう電話は切るから。おやすみ」
返事はなかった。
「仕事、無理すんなよ。ユキさんが、あんたのこと凄く心配してた」
電話が切れる。スマホにつけられたストラップが所在なさげに揺れている。オレは再びスマホの電源を切りポケットに突っ込む。ぐしゃりと何かが音を立てた。ポケットの中を探ると、朝一さんのカードが出てきた。
『親愛なるユキさんへ』
「……最悪」
せっかく小可さんに連れてきてもらったのに。
気分は逆戻りだ。
「やっぱ温泉はいいねー」
車内に、小可さんの声が響き渡る。
「気分は絶好調! 日頃の疲れもぶっ飛んじゃったって感じだねー!」
「……」
「……そーれっ」
抱きつかれる。
「サインいる?」
「いらない」
「五千円いる?」
「いる」
「んー。やっぱあげない」
「……ケチ」
「君には言われたくないな。それに未成年の男の子にお金渡すおじさんって絵面がヤバい感じがするし」
今更だろ。
「あんた今いくつだっけ?」
「今年で二十三」
「全然おじさんって歳じゃないだろ、それ」
たった七歳違いだ。
「というわけで問題は全くないので金ちょうだい」
「あげたとして、何に使うつもり?」
「グレる。髪を真っ金髪にして、盗んだバイクで走り出して、んで、クラブで夜通し踊ったりすんの」
オレは笑った。小可さんは笑ってくれなかった。
「……五千円で?」
「五千円で」
「足りないでしょ」
「うん。全然足りない」
もっと色んなことがしたい。酒飲んだりタバコ吸ったり、危ない薬物をたしなんでみたり? あと何があるだろうか。金と迷惑がかかりそうなやつ。
「だからもっと金ちょうだい」
「あげません」
「小可さんが金くれなかったら、オレ、強盗とかしちゃうかもよ。本気だから」
何度もせがむと、小可さんはため息を吐いた。
「……しかたないなあ」
そう言って、鞄を漁る。オレはてっきり金が貰えるんだと思っていた。だけど、小可さんが鞄から取り出したのはメモ帳とシャーペンだった。
小可さんはシャーペンで紙に何か書き、オレに手渡す。
「何これ」
「俺のメッセージアプリのID」
「オレ、これがほしいわけじゃないんだけど」
「そう? 今、君が一番欲しがってるのはコレだと思ったんだけど。言ったでしょ。俺でよければ話は聞くって。なして君はそう、複雑なアピール方法を選ぼうとするかなあ」
そう言って小可さんは微笑んだ。羨ましくなるくらい上手な笑顔で。オレには到底できない笑顔で。
「いらないって、こんなの」
オレはメモを突き返そうとするが、右手を捕えられ、メモ帳を皺くちゃになるくらい強く握らされる。
「いらないなら別にそれでいいけどさ、とりあえず貰っといてよ。捨てるのは家に帰ってからで良いから」
そう言って小可さんは車を運転させた。
「着いたよ」
小可さんはオレの家の前に車を停めた。
「ほら、早く帰りな。ユキさん? って人も心配してるよ」
オレが黙って俯いていると、小可さんはオレの肩を叩いた。
「大丈夫だって。俺は、何があろうと君の味方だから」
顔を上げると、思ったよりも間近に小可さんの顔があって驚いた。小可さんのキラキラした目の中に、情けないオレの顔が映っている。
「行ってきな」
どうしてだろう。小可さんの言葉には不思議な力がある。オレの悲しみや苦しみ、様々なものを溶かしてくれる力が。オレは、そんな小可さんの優しさが怖い。一度手にしたら離れられなくなる。そんな気がした。
「じゃあ……また明日」
車から降り、遠ざかっていく光が見えなくなるまで見送る。ぐしゃりと、手の中で音が鳴った。
少しシワの寄ってしまったメモ用紙を、丁寧に広げ、一度じっと眺めてみる。辺りが真っ暗なせいで何が書いてあるか見えなかった。
××××
玄関の明かりはついたままだった。
照明がオレの目をくらませる。
少し立ち止まり、息を吐き、慌ただしく鳴り響く心臓を落ち着かせると、廊下を歩いた。
リビングの明かりも、ついたまま。
いつも二人で座っているダイニングテーブルに、ひとつの物陰があった。
……ユキさんだ。ユキさんがテーブルに突っ伏して眠っている。
ユキさんの表情は酷く苦しげだった。眉間にしわを寄せ、眉を八の字に下げている。下瞼にくっきりと浮かんだ涙の跡を見て、罪悪感が頭を掠めた。だけど、それよりも、この人がオレを待っていてくれた事実が嬉しかった。
「……ユキさん、オレ」
あなたのことが好きなんだ。どうしようもないくらい、好きだ。
「どうしたらあなたはオレを見てくれる?」
朝一さんのことなんか見ないでよ。オレだけを見ていてよ。今までみたいに、オレだけを。
オレのことだけを。
そう言ってしまいたかった。
手を、ユキさんの髪に伸ばそうとした。
その瞬間。
「……うぅん」
ユキさんが僅かに身動いだ。
慌てて手を引っ込める。
「……歩望さん」
ユキさんが小さく呟いた。目を覚ましたのかと思ったが、どうやら夢を見ているようだ。
「歩望さん、どうして」
呼ばれた名を聞いた途端、心臓が痛いほど軋んだ。
「どうして帰ってきてくれないんですか? どうして、希くんに会ってあげないんですか?」
とても、悲しげな声。捨てられた子犬のような鼻にかかった声を上げ、ユキさんは鼻をすする。
「私では、あの子を幸せにすることなんてできません。あの子を悲しませたくないってどんなに願っても、あの子はあなたがいなければダメなんです……私、どうすれば良いのか分からないんです」
ユキさん……。
そうだ。辛いのはオレばかりじゃないんだ。ユキさんも、どうすれば良いのか分からなくて、ずっと悩んでいる。オレのために、こんなにも尽くしてくれている。悩んでくれている。
それで十分じゃないか。
これ以上の愛を求めたところできっと、誰も幸せにはなれない。
「ごめん、ユキさん……」
オレ、もっと頑張るから。
もう、こんな風に外に出ようとは思わないから。
あんたに迷惑はかけないから。
「だから、泣くなよ」
部屋に戻って服を着替える。小可さんから貰ったメモ帳を机の上にシワを広げて置いた。暗闇では分からなかったけど、小可さんの字は凄え下手くそだった。
「こんなの読めねぇよ、バカ」
朝一さんのカードはビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。
それでも気は晴れなかった。




