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原作のあのエピソード

「旦那様」

「……大丈夫だ」

気遣わしげな妻の声に、アシュフォードは強張った笑みを浮かべる。

「本来ああいう事を仰る方ではないんだが」

今まで頑なに公の場を拒んできたアシュフォードが、婚姻報告を兼ねてとはいえ夜会に出席し、登城してきた事が王太子が彼を求める気持ちを先走らせてしまったのだろう。

「王太子殿下は、旦那様を随分と高く評価しておいででしたね」

「学生時代からだ。訳わからんだろう?」

「わかりますが」

「え」

「わかりますが?」

「いや、聞こえてる、聞こえてる」

普段と変わらぬシルヴァールの様子に、アシュフォードは小さく息を吐き出す。

「まあ、義理は果たした。もう少し見世物になったら、帰ろう」

「踊りましょうか?」

「君に女性パートをさせたくはないんだが」

初夜以降、アシュフォードはシルヴァールを女性扱いする事を注意深く避けているようだった。

ドレスだろうと、女性パートでのダンスだろうと、アシュフォードの為にするのならなんでもない事だというのに。

アシュフォードは通りがかったボーイからグラスを2つ受け取り、シルヴァールに1つ渡した。

うっすらと緑がかった美しい金色のワインはどこか誰かを思い出させる。

王都に向かう途中の事故で両親を亡くした少年は、ひどく不安そうだったが、貴族の役目をしっかりと学んでいるのでアシュフォードを止めたりはしなかった。

早く帰って安心させてやりたい

お土産を沢山買っていってやろう、なんて考えながらグラスを傾ける。

その前に、やらねばならない事がもう一つ。

「ルヴァ」

「はい」

悪辣公爵たる夫の特別な呼び方に、シルヴァールは自然と微笑んだ

たまたま傍にいた中年貴族がぽかんと公爵夫人を眺め、どこぞの令嬢が小さな悲鳴を上げる。

手にしたグラスの最高級であろうワインが色を無くしそうな程のそれは『金で買われた憐れな下級貴族の青年』には決して出来ない艶めいた笑みだった。

「挨拶をせねばならん方がいらした。控えていろ」

「はい」

ひとつ頷いて、するりとアシュフォードの後ろに下がる。


さあ、イベントだ。


「先生、ご無沙汰致しております」

ネルベルク公爵が丁寧に挨拶をしたのは、小柄な老人であった。

と、言っても見た目は初老くらいだがアシュフォードの知る限り、10年も前からその姿は変わっていない。

「アシュフォード。いや、今はネルベルク公爵閣下か」

「2年前に……」

「ああ、よいよい。その辺の事情は聞いておるよ。その後の君の『活躍』もな」

老人はアシュフォードの貴族学園の恩師で、結界魔法の大家でもあった。

煌びやかな貴族子女に紛れてひっそりと勉学に励んでいた地味な生徒(と、本人は思っている)を何かと気に掛けてくれた数少ない教師で、魔力量の少ないアシュフォードが、何とか魔力消費を抑えようと魔法石を用いて結界を維持する魔法を開発した時も、論文や術式の発表にアシュフォードの名を出さぬ様にと尽力してくれた。

授業は厳しいが、それ以外では悪戯好きでお茶目という掴み所のない性格で、アシュフォードは随分と振り回され困らされた。

それでも、学園の教師の中には伝説の存在として扱われているクリスフォードと比べる者や(兄の卒業試験の点数は未だ破られていないらしい)、ネルベルクらしからぬ地味な容姿をあからさまに下に見る者もいた中で、生徒の学びたいという気持ちにはきちんと向き合ってくれたし、何より彼はアシュフォードを決して『ネルベルク公爵家の出来損ないの次男』として扱わなかった。

2年前までは頻繁な交流もあり、今でも感謝も尊敬もしている恩師だ。

でもなあ……『原作』でなあ。

「君もようやく妻を持ったか」

「ええ」

アシュフォードはさりげない仕草で、恩師と妻の間に入った。

『原作』の悪役公爵と接点があったのかは分からないが、酒に酔ってご機嫌な老人は、沈痛な面持ちで悪辣公爵に付き従う主人公に絡む。

そしてあろうことか日本だったら訴訟案件待ったなしのセクハラを行うのだ。

王家の夜会に参加するような立場の老人に物申せる訳もなく、主人公は耐えるしか無かった。

しかも、それを悪役公爵に見とがめられ、帰りの馬車で主人公は「お仕置き」をされる。

当然、BLには良くあるアカン方のお仕置きだ。


いやまずそこは先生に抗議だろうが!


と、アシュフォードは思うのだが、悪役公爵は主人公に執着して自由を奪って、その癖老人のセクハラには何も言わない。

主人公に不幸なエロ展開を起こす為だとしても、もう少し行動原理をはっきりせて欲しいのだが。

アシュフォードはこの『エロイベント』を回避したかった。

原作主人公の理不尽さに同情したのが始まりだとしても、シルヴァールに不快な思いをさせたくない。

当然いやらしいお仕置きをする気もない。

「どうやったらこんな美しい嫁を捕まえられるんじゃ」

恩師の問いに、アシュフォードは真顔で答える。

「そこはまあ、権力で」

「けんりょく」

そのやりとりを黙って聞いていたシルヴァールは堪えきれずに小さく吹き出した。

旦那様と権力の文字は余りにも似つかわしくなかったから。

「ほうほう、学園では有名なお人形かと思ったがなかなかどうして」

貴族学園で学んだシルヴァールも、当然彼を知っていた。

良くも悪くも有名な教師だったが、魔法の授業は基礎以外選択していなかったので直接的な面識はなかったが。

「恐れ入ります」

なんと答えるのが正解なのかもよく分からないまま、旦那様の恩師に軽く頭を下げる。

「何か困った事があれば言うと良い。可愛い教え子の力になろう」

「ありがとうございます。何かの際は頼らせていただきます。それでは失礼」

どうやら何事も無く終わりそうだ。

アシュフォードは恩師に背を向け、シルヴァールの腰を抱いた。

これならおいそれと不埒な真似は出来まい。


よし、エロイベント回避……!


そのアシュフォードの喜びは一瞬だった。

「ところでアシュフォード。学生時代より肉が落ちたんじゃ無いかの?」

「ひにゃあぁぁぁ!」

尻尾を踏まれた猫のような声が出た。

恩師はジャケットの裾から手を差し込むと、シルヴァールではなくアシュフォードの尻を鷲掴みにしたのである。

「せせせ、先生、ななななな何を」

赤らんだ顔全部でニヤニヤしながら、今度はさわさわと撫で回すものだから、アシュフォードは硬直した。


あ、痴漢で動けなくなるって、これか。


BL小説の世界に転生して間もなく28年になるが、今になって『気持ち悪いのに、動けない、どうしていいのか分からない』という前世の痴漢に遭遇した被害者の気持ちを理解した。

「旦那様に何をなさいます」

その、さわさわと止まらない恩師の手を掴んで引き剥がしたのは、『悪辣公爵に金で縛られた憐れな』そして大変に頼りになるアシュフォードの美しい妻であった。

「新公爵は嫁にデレデレで目も当てられんと聞いてな」

面白がるような恩師に、シルヴァールは神の作った芸術品のような笑みを浮かべる。

「それは、どなたからお聞きになられたのでしょうか」

「それを聞いてどうするのかね」

「少し、その方と認識の摺り合わせが必要かと」

「物理的にかの?」

たおやかな手は、大の男も顔をしかめるような強さで老人の細腕を締め上げていた。

その部分を極めて小範囲の結界で防御して涼しい顔をしている恩師も大概である。

「場合によっては」

気配は一切笑っていない公爵夫人に、恩師はどこか満足げに頷いた。

「なるほどなるほど。アシュフォード、良い嫁を貰ったな!」

「恐れ入ります……?」

アシュフォードはやりとりの意味がわからず困惑顔だ。

不意に、第三者の声が割って入った。

「大叔父上、何をなさっているのです!」

「なんじゃ騒々しい」

「騒々しいのはどちらです!」

年の頃はアシュフォード(の実年齢)と同じくらいの、細い銀縁の眼鏡を掛けた神経質そうな男だった。

「あ」

アシュフォードはその男に見覚えがあった。

貴族学園の同窓で、常にトップクラスの成績を誇っていた現宰相の息子である。

融通が利かないタイプの真面目で、今は王太子の側近をしている筈だが、恩師と血縁関係にあったのは知らなかった。

魔力量の関係で効率を求め変則的な魔法の使い方を模索していたアシュフォードは、いつも目の敵にされていたように思う。

「君は……。こほん、失礼致しましたネルベルク公爵閣下。身内が大変な無礼を働いたようで、申し訳ございません。後ほど謝罪に伺わせていただきます」

王太子とは反対に、同窓だからと気安くはならずにきちんと線を引いて最高位貴族への対応をしてきた。

会場で謝罪だなんだと大騒ぎにしない采配はさすがと言うべきか。

「いや、久々に先生にお会いできたのだ。酔っておられたようだし無粋な事は言うまい」

『悪辣公爵』なら嫌味の1つも言うかも知れないが、なんだか色々と削られてその気も湧かない。

「寛大なお心に感謝いたします」

とにかく、原作のエロイベントはこなした。

『悪辣公爵』が執心している『金で買われた憐れな妻』の姿も、社交界に披露した。

王都にはもう用はない。

「そろそろ良いだ、ろ……」

しかし、その視線は、アシュフォードを擦り抜けてシルヴァールに突き刺さった。

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