二人きり
扉に入ったとき、ふと気づく。先輩のシャツを着たままだった。少しは乾いたが、まだ濡れている。けど返さないといけないのも確か。
屋外は風が吹いて涼しかった。でも屋内に入ったら蒸し暑さが目立つ。
「先輩。……あのシャツは」
「ん、あぁ。それやる。女もんだし。あぁそっかそしたら君のシャツ返せねぇか。ならおれ体操服着るから……付いてこい」
面倒なことをしてしまったな。でもまだもう少しだけ先輩といられる。
放課後のしんとした廊下を歩いていた。
部活動をしていた生徒もほとんど帰る時間なんだろう。吹奏楽部の音一つ二つ響くだけ。運動部の掛け声も聞こえない。
今は静かに先輩の後ろを歩いていて、ただコツッコツッとローファーの音とタンッタンッとスニーカーの音が聞こえるだけだ。どちらもなにも話すことがなく、ただ歩いて時間が過ぎていく。
僕はずっと先輩の背中を見ていた。こんなにじっくり先輩の後ろ姿を見るのは初めてだ。後ろ姿も……。ドクッと心臓が鳴ったことを感じ、後ろ姿から目を逸らして床を見つめる。
先輩の後ろ姿だけを追って歩いていたら突然止まった。無心で歩いていたから、ぶつかりそうになった。顔を上げるとそこには三年の教室があった。
「入れ」
そう言って先輩が扉に手をかける。が、もうすぐ下校時間だ。もちろん鍵がかかっててガチャッと開かなかった。
「…………」
「……き、君、鍵持ってこい」
「僕がですか。二年だから不振に思わ」
「いけるって。兄弟が忘れ物してとか言っとけ」
「…………」
兄弟すらもいないのに。
職員室に鍵を取りに行ったら、当然疑われた。老人先生ならうまくいけたかもしれないが。
僕に兄弟がいないことを知っていたらまずいから、友人に三年の先輩がいて、その人が忘れ物をした。そう言ってなんとかごまかせた。
「お待たせしました」
「おぉ、よくやったぁ。いやぁ俺が職員室言ったら騒がれると思ってよぉ。ほら学校全然行ってねぇからさすがに俺だってわかるだろぉ?」
確かに先生のなかでそういった情報は知れ渡っているのかもしれないから、先輩が高判断したのは正解だったのかもしれない。
鍵を開けたら、先輩は入っていく。僕が扉の前で立ち止まってたら「入れ」と言われた。
鍵がかかっていたから当たり前だが、室内には誰もいなくて、電気もついていない。
扉を閉めたら微かな夕日の光が教室に入るだけ。
先輩と、暗がりで二人きり。
その事実は、妙に胸を高鳴らせた。
ここでなにかしても、バレない。
「君」
「はっ、はい……」
「それ脱げ。いつまでも着てたら風邪引く」
脱ぐって……。じわっと体が熱くなって、汗をかく。体が熱くて……ふらふらする。でも熱いなら脱いでしまえば――
「……で、でも……」
「あぁ?」
「あっ、いや……なんでも、ないです」
心臓、止まれ……。これ以上熱くするな。
そう願っても、止まってくれない。ここは風も吹かない閉ざされた部屋。服をパタパタと揺らして、風に当たるしかなかった。
そんな僕をよそに、先輩は淡々とシャツのボタンを外していた。そして全部外したら見える胸にある包帯。
そして体操着を着る前に、ジッーと音を鳴らしてスカートを脱いだ。黒の下着が、ホクロが、丸みのある太ももが、
「…………」
だめだ、あたまが……。
僕は机に手を付きながらゆっくりしゃがみ込んだ。
「っ……」
息が……苦しい。
「君? どうした」
シャツの前が開いたままの先輩が近づいてくる。ただそれだけなのに、音が遠くなる。
顔が近い。聞こえないはずなのに、先輩の呼吸音が、鼓動が、聞こえる。
頭がぼんやりする。少しでも和らぐように、俯くしかなかった。
「また熱中症でもなったかぁ?」
頬に温度がある。冷たい、でも温かい。
「とりあえず座れよ」
肩に、背中に触れられて、ずっとずっと、胸の高鳴りが止まらない。
「急だなぁ。ぶり返したかぁ?」
「なんとも……ないです。ない、から……」
触れられる手を解いた。
「なんともないことな」
心配してくれる先輩の肩を掴んだ。強く。
「これ以上、されたら……おかしくなる」
今も、もしかしたらずっと前から、その触れられる手を、頬を、唇を、奪いたかった。
肩を撫で下ろした手は、机に置いて立ち上がった。でもまだ頭は体を揺らして、机に手を付かないと立っていられない。
『下校時間になりました。まだ残っている生徒は』
「…………」
「…………」
校内放送の声が終わった。教室には、まだ僕と先輩が二人きりでいた。
「……早く着替えねぇとせんせぇ来るわ。これ、着ろな」
机の脚を見ていた視界は、白で覆われた。そして頭からシャツがずり落ちて、また机の脚が見える。
「…………」
本当に、どうかしている。
先輩に背を向けながら、濡れたシャツから落ち着くニオイのするシャツに着替えた。
もう少し待っていると先輩から声をかけられる。
「着替えたな。出るぞぉ」
先輩は扉を開けて出た。でも僕の脚はまだ動かなくて、先輩はひょいと顔を覗かせた。
「鍵閉めんぞぉ」
「…………」
先輩は僕を一目見て、また扉に姿を隠した。
僕だけが、体を汗ばませていた。
僕だけが、呼吸を乱していた。
僕だけが、心臓を熱くさせていた。
終わること、それを望まないのは僕だけだった。




