知らない感情
「さ、もう陽が沈みそうだ。もう用はねぇ。下りるぞ」
先輩がそう言ったあと、風が吹いてきて髪や服を揺らす。男の服を揺らされても支障はないが、女の服を揺らされるともちろんスカートが揺れる。そして、スカートが短ければ見えなかったものも見えてしまう。
大きな風が吹いたとき先輩がはいていたスカートが揺られ、座っていたものだから先輩の黒い下着が見えてしまう。太腿にある黒い点も見える。
「涼しぃ」
先輩は気づいていないのか、のんきにそう呟く。
「……隠そうとしないのですか……?」
「なにをぉ?」
「……下着を」
「べつにいいだろ。君どうせ保健室にいた時俺のパンツ見たんだろ」
「みっ、見てないですよ」
あの時はホクロを見てしまっただけで、決して見たりなんか……。
「でも、今も目ぇ逸らさず見てるじゃねぇか。同じだろ」
言われてパッと逸らす。べつに、見てなんか……。さっと立ち上がって、尻をはたいた。それに黒の下着だから、スカートの影で見えにくかったから……。
「…………」
ぶわっと体が熱くなった。も、もう、忘れよう。
けど濡れたシャツを着ているから、風で冷やされてブルッと体を震わせた。そういえばずっと着たままだった。
くしゃみをしそうになって堪える、が、すぐに出た。
くしゃみで視線が下がって見えるスカート。やっぱり今にでも見えそうな長さ。
「……あれだろ、君のことだから女もんの下着が気になったんだろ」
「…………」
僕のことだから……? 女性の下着が気になった……? 違う。きっと違う。僕は、僕は……。
先輩は僕のことをどう思って……。
わからない。なんでもやもやするのか。ただよくわからない感情に乗っ取られている、そのことだけは理解できた。
「てか、後ろあぶねぇからもっとこっちに」
腕を掴んで引っ張られる。けど僕はそれを払って、先輩から一歩身を引いた。
「……帰ろうぜ?」
出入り口を親指で指して言う。
僕がこんな態度をとっても、先輩はなにも言わず太陽に向いた。腕で顔に影をつくって歩き出す。
もう、終わりみたいだ。
陽は来たときよりも下がっていて、周りが少し暗い気がする。ずいぶんとギルを待たせたかもしれない。……それに謝らないといけない。
先輩を真似て、腕を隠しながら扉があったほうへ向かう。が、腕で前を隠していたから先輩にぶつかった。先輩はなぜか立ち止まっていた。
「すいません」
「あぁ。……なぁ、一つやりたいことあったんだぁ。してもいいかぁ?」
やりたいこと……? 僕に?
「そこ立て」
返事をせずとも、先輩は白い壁を指差す。もう一度先輩の顔を見ても、なにを考えているのかはわからない。これ以上待っても帰る意思出さないのがわかったから、僕は白の壁の傍に立って、先輩に向いた。
先輩の顔は真剣さが見える。なにをするんだ。
先輩は一歩一歩近づいてきて、僕の心臓がうるさくなる距離になったら止まった。
そして、
「っ……」
ドンッと、顔のすぐ横に手を付いた思わずビクッとした。これが先輩のやりたかったこと……? だとしてもこれはなんだ……?
「……なんですかこれ」
「…………」
「……あの」
「……あぁ、もうせっかくゾーン入ってたのにぃ、君が喋るから集中切れたぁ。壁ドンだぁって。知らねぇ? 一回やってみたかったんだぁ」
……は。
「ほらぁ、これからかっこよくなったとき、女にドキッてさせるには壁ドンが一番だろぉ? だから君で試したってわけ。ちーと背が高くて気に食わねぇけど、どんな感じなのかやってみたくてよぉ。恋人できたときの練習。
早いうちにやりたかったことできたぁ。ありがとなぁ」
「…………」
恋人の練習台……? うるさかった心臓は落ち着きを見せていく。いや、聞こえなくなっていく。
そのためだけに、僕を使った……?
「どうしたよぉ、そんな顔して。あ、もしかしてほんとにドキドキしたぁ?」
人差し指で頬を突いてくる。
僕はその手首を掴んで止めようとしただけだった。けど気づいたら、
「って……」
先輩の頭を壁に打ち付けていた。手には先輩の手首を掴んで、もう片方の手は、先輩の肩を壁に押さえつけている。
「なにすん……だよ」
「…………」
弱くなった先輩の声。それに少し安心した感覚がした。
なんでこんなことしたのかはわからない。奥歯を強く噛んで、手にも力が入っていて、目の前にいる人間になにかをしたかった。けどそのなにかには見当も付かなかった。
「……僕をなんだと思ってるんですか」
「……なにって」
言葉の続きはなかった。
なんとなく、先輩のすっと細い首を噛みたくなった。細くて、白くて、痛々しい跡をつけたらきっと赤色が目立つ。
けど、そんなことを考える僕が意味がわからなくなって、そっと先輩の手首を離して一歩下がった。俯いた視線の先は先輩の小さな靴が見える。
「……ごめんなさい」
期待を裏切られた感覚がした。
怒りを覚えた気がした。
そんなことを言っても、先輩は理解できない。僕でさえ理解できていないんだ。
このまま一緒にいたら、当たってしまう。それだけがわかっていた。だからなにも言わずに扉に入ろうとした。
けど先輩がそんなこと許すわけなく、扉に向いたとき、急に足の力が抜けた。いや、足を掛けられた。
そしてバンッと、大きな鉄製の扉に穴が空くような音がした。
尻が付いていると気づいたら後ろを向く。顔の横に先輩の右足が伸びていて、見透かすような瞳が僕を見ていた。
「なに思ったのか知らねぇけど、君は俺の『特別』だ」
「…………」
先輩の、特別……。
「だからそんな顔すんなって。また家に行ってやるから」
そして優しく微笑む。
ずっと先輩が家にいる時、早く帰ってくれることを願っていた。なのに今はそんなこと思ってなくて、もっと先輩と話しをしたい。そんな感情さえも生まれている。
僕は……。
足を下ろした先輩は下を向く僕に言った。
「気済んだかぁ。済んだんなら下りようぜ」
「……そうですね。すいません、どうかしてました。……下りましょうか」
差し伸ばされた手を取って、立ち上がった。




