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早咲きの蓮華は地面に咲いた  作者: 雨夜玲
それを望んだわけではない
29/66

それぞれの家庭環境

「……さっきは悪かった」

「いいですよ。……なんともないです」

 腹の不快感に、腕で顔を隠しながら机に伏せていた。まだ気持ち悪い。出なかったくせに。けど、吐くことが片手で足りるくらい嫌いなのも確かだ。

「あ、そういえば薬、飲んだかぁ」

 忘れていた。飲まないと。

 出されている薬をまとめて錠剤シートから出して、口に放り込んだ。喉に大きなものが通る感触を覚えながら、飲み込んだ。

「……君、水は?」

 そうだった。薬を飲むときは、水が必要なんだった。

 コップに入れた水を水分を補給するように、ゴクゴクと飲む。

「……薬水なしで飲む奴初めて見た」

 最近、いや警部が世話してくれるようになってから、薬の飲み方を知った。粉末薬であっても、錠剤であっても、カプセルであっても、水と一緒に飲むと。今までそのまま飲み込んでいた。だから今もときどき忘れる。

「今までそう飲んでたのかぁ?」

「忘れただけです」

「忘れることもねぇと思うけどなぁ」

 静かになった先輩は変わらず向かいに座っている。本当は女性だとか、家に帰れないとか、

「…………」

 厄介な人だ。

 このあとどうするかとぼんやり考えていたら、向かいから大きく腹が鳴った。つい顔を上げると同時に、

「腹減ったぁ」

 と呟く。

「きみぃー、あとでちゃんと返すから、金貸してくれよぉ。昨日から飯食ってねぇから吐きそうだぁ。小遣いもこの前使ってなくなったしぃ」

 先輩はなにか理由があって家に帰れないらしい。だから食事代ももらっていないのかもしれない。

 なんで家に帰れないかなんて、聞くべきじゃないんだろうが、それがもし鍵をなくした、とかならいつまでも僕の家に居候されても困る。……それ以外なら、考えるが。

「なんで……帰れないんですか」

 慎重に聞けば、

「……親父が、俺のこと否定すんだよ。胸取りてぇつっても『お前は女だ』っつって、許してくれねぇ。小遣いで足りるような額でもねぇ。……だから、帰れはする。けど、帰りたくねぇ」

 先輩に限って鍵をなくした、なんて言うとは思ってなかった。

「そうですね。帰れないですね」

「……帰れって言わねぇのか」

「言いませんよ。僕だって同じ立場になら帰りたくないです」

 ぽかんと口を開けた先輩だが、すぐに優しく微笑んだ。

「俺を否定しねぇ奴、君が初めてだ。……ありがとうな」

「…………」

 感謝されることをした憶えはない。

 変わらず先輩の腹からはぐーぐー鳴り続けるから、鞄から財布を抜き取った。

「買いにはいけないので、これで買ってきてください」

 財布から千円札一枚と五〇〇円玉一枚、十円玉をあるだけ先輩に渡した。これくらいあれば十分に食べられるはず。

「返さなくていいですし、おつりも貰ってください」

「……ありがとな」

 やっぱり先輩は、優しい。

 金を貰った先輩は足早に家から出ていった。僕も玄関まであとを追って鍵をした。

 食卓に戻って机に伏せた。が……やっぱり寝転びたい。けど部屋に上がってベッドに寝転ぶのは少し避けたい。急な吐き気に襲われても、トイレまでの距離が長い。ゴミ箱に吐いてもいいが、処理が面倒臭い。

 だからソファーに寝転びに行った。食後だから、寝ないように。

 しばらく体の熱さ、でも寒さに負けてぼーっとしていた。時間が過ぎるのが長かった。もう部屋に入って寝てしまおうか、そんなことを考えていた。

 いい、寝よう。そう毛布を部屋から取りに行こうと立ち上がったら、玄関からガチャッと扉を開けようとする音が鳴った。けど鍵はしているから開かない。誰だ。……いや先輩か。間違えて鍵をかけてしまった。

 鍵を開けに行こうとする間に何度もインターホンが鳴っていた。

 鍵を開けると勝手に扉が開いて、

「鍵かけるとはいい度胸してんなぁ!」

 ヤンキーめ。

 ずかずかと家に入り込んでいつもの席に腰掛け、食卓テーブルの上にコンビニの袋をどっと置いた。

 先輩が戻ってきてしまった。いや帰れないのなら家に上がればいいが、来客があるのに寝に行けない。

 仕方なく、先輩の向かいに座って、腕を枕にしながら先輩の様子を見ていた。ガサゴソと袋からいろいろ出している。

「…………」

 こめかみに汗が流れて、部屋の蒸し暑さを思いだした。先輩もいるんだ。冷房をつけた。部屋が薄暗いことにも気がついて電気もつける。

 椅子に戻れば、食卓に先輩が買ったものが出そろっていた。たまごが挟んである二枚入りのサンドイッチ、ハムやレタスが挟んである二枚入りのサンドイッチ、塩おにぎり、手のひらを広げたくらいのそぼろ丼。……こんなに食べるのか。

 袋は結ばれず邪魔になっているから、それを結ぼうと手に持った。が、中にまだ入っているみたいだ。それも出してしまおうと中を見たら、

「……これって……」

 三五〇ミリリットルの度の弱い酒だった。

「なんだぁ?」

「……まだ未成年……ですよね」

「いいんだよ。どうせバレない。現にこうやって買ってこれた。それに俺ももう……数年したら二十歳だ」

 関係ないだろ。

「だとしても、法律で」

「バレなきゃいいんだよ。君も飲むかぁ?」

「飲みません」

 僕はポケットに手を突っ込んで、スマホで「110」に電話をかけようとするが、

「それは駄目だなぁ。しばらく預かるぞぉ」

 先輩にスマホを奪い取られた。

「返してください」

 机を乗り出して手を伸ばすが、背を反らされて届かない。

「病人は黙って寝てりゃあいいんだよ」

 その言葉に少しイラッとした。

 けど確かに通報したら、したで面倒臭いことになるんだろう。僕の今の状態でそれに対応する力もきっとない。

 先輩は酒をカポッといい音を奏でて、喉元を鳴らしながら飲んでいく。

「ふぅー! 久々の酒はうめぇなぁー!」

 初めてじゃないのか。早いときから脳を悪くしなければいいが。

 そぼろ丼の蓋も開けて、袋に入っていた割り箸で勢いよく口にかき込んでいく。相当腹が空いていたのだろう。

 そんな先輩の様子を見ていたら、

「昨日食ってねぇし?」

 そう返ってきた。なにも言ってないが。

「先輩の親はまだ仕事だと思うんですけど、それでも帰らないんですか」

「帰れねぇっつってんだろ」

 親が仕事で家を空けていても?

「鍵どっかなくしたんだぁって」

「…………」

 今すぐ出ていってください。

 でも親が帰ってくる時間になれば家に入ることはできる。医師がどんなスケジュールなのかは知らないが、連絡して家を空けてもらうこともできたはずだ。

 けど現に昨日から食事をしていないらしい。それに酒にまで手を出している。ふいに「虐待」「ネグレスト」なんて言葉も頭に浮かんで、少し胸が苦しくなる。

 酒を数口飲んで最後に残った塩おにぎりを袋から開けて食べ始める。

「君の親ってさ……休みの日はちゃんと家にいるんだよなぁ?」

 ここでいると答えて、休日に先輩が来たら問い詰められる。

「……いないですね。僕と違ってアウトドアなんで」

「はぁ、もっと子供の面倒見てやれってぇの」

 それは先輩の親にも言いたい言葉です。

「面倒を見られるほどの年齢ではないので。それに騒がしくなくてむしろありがたいくらいです」

「けど、飯とかも自分でしないといけねぇから大変だろ」

「慣れましたから」

「……子供は親がいることで子供として生きていけるのに、いなかったら子供になれねぇんだ。会ったらガツンと言ってやる」

 そんな言葉を言って、あれだけあった昼食を食べ終えた。どうなってるんだ胃の大きさ。

 ガツンと言うことも、一生できないんだがな。言いたくもない。

 それにしても、あの言葉。

 ――子供は親がいることで子供として生きていけるのに、いなかったら子供になれねぇんだ――

 僕は世話をされる歳でもない。「子供」なんて言える歳でもない。僕は子供じゃない。

 先輩が食べて作ったゴミを片付けた。

 先輩の顔は食べ始める前と比べて薄らと赤くなっている。酒のせい、だろうな。本当に赤くなるんだな。

 僕も早く二十歳になって飲んでみたい。

「きみぃー。なんかつまむもんないー?」

 まだ食べるのか。

「ないです」

 居酒屋ではないんですから。

「ちょっと」

 そう言って手招きをする。わけもわからず先輩が座る隣の椅子に座り込んだ。少し酒臭い。

「よーしよしよし」

 隣に座ったら頭に手が伸びてきて、身を縮める。目をつぶる。息が止まる。

 けど頭に乗ったその手は温かくて優しい。その優しさに惹かれて目を開けた。

 右に、左に揺さぶって撫でられる。それに僕は、自然と頭を下げていた。なんだか、温かい。……ずっと、触れていてほしい。

「どぉしたんだぁ? 涙なんか目ぇに付けて」

 いつの間にか閉じていたまぶたを開けば、目の前は歪んでなにも見えない。そしてあふれた涙が頬に伝って、服の袖でそれを拭った。なぜ泣いてるなんて、わからなかった。

 それでも先輩は、その細い腕で僕の頭を包んで胸に引き寄せるから、僕はその温かさに包まれるように、先輩に身を預けた。

「なんで……こんなことするんですか」

「食いもんの金くれたお礼だぁ」

 もっと他の礼がよかった。けど、

「……ありがとうございます」

 包んでくれている。その事実が今は嬉しかった。


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