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2 : 翠色の幼馴染

「今年も、彩炎に出るの?」


 白岡澪嶺の声は、桜色の廊下で、やけに涼しく聞こえた。

 春なのに。

 窓の外では花びらが舞っているのに。

 白岡の周りだけ、少し温度が違う気がする。

 耳元の石には、氷青と銀白が重なるように灯っていた。

 光の中にあるのに、眩しいというより、透き通っている。

 綺麗だと思った。

 そう思って、すぐに少し腹が立った。

 何を普通に綺麗だと思っているんだろう、私は。


「……出るけど」


 私は答えた。

 できるだけ普通に。

 たぶん、少しだけ声が硬かった。


「そう」


 白岡は、ほんの少しだけ目を細めた。

 笑った、というほどではない。

 でも、何かを確かめたような顔だった。


「なら、よかった」


「何が」


「また、あなたの炎が見られるから」


 私の炎。

 そう言われて、左手首の袖を押さえる指に少し力が入った。


「……別に、見せるために出るわけじゃない」


「ええ。そうでしょうね」


 白岡は静かに頷いた。

 その声は丁寧なのに、どこか鋭い。

 言葉がこちらに届く前に、余計なものだけ削ぎ落とされているみたいだった。


「雪解け」


 白岡が、黒板に書かれていたのと同じ言葉を口にした。


「よい題ですね」


「白岡には合ってそう」


 言ってから、少しだけ後悔した。

 別に褒めたつもりではない。

 ただ、事実を言っただけだ。

 白岡は前回の冬も強かった。雪解けなんて、いかにも合う。


 それだけ。


「そう見えますか」


「見えるでしょ」


「ええ。私も、そう思います」


 あっさり認められて、逆に言葉に詰まった。

 白岡は、自分の強みをちゃんと知っている。

 それが少し羨ましかった。

 私は、自分の色が何に向いているのか、まだよく分からない。


「朝霞さん」


「何」


「あなたは、雪をどうしますか」


「……溶かす」


 反射的に答えていた。

 白岡は、静かに私を見る。


「そう」


「何」


「いえ。あなたらしいと思っただけです」


「それ、褒めてる?」


「どうでしょう」


「そこははっきりして」


「では、楽しみにしています」


「会話を終わらせないで」


 白岡はほんの少しだけ、口元を緩めた。

 気がした。

 見間違いかもしれない。


「今年も、よい春にしましょう」


 よい春。

 その言い方が、少しだけ古風に聞こえた。

 白岡はそれだけ言って、廊下を歩いていく。

 私はしばらく、その場に立っていた。

 別に、見送っていたわけじゃない。

 動くタイミングを失っただけ。


「なに固まってんの」


 後ろから声をかけられて、肩が少し跳ねた。

 振り返ると、奏が壁にもたれていた。

 いつからいたのか分からない。

 ネクタイは相変わらず少し緩くて、手首のミサンガみたいな炉飾りには濃いエメラルドが灯っている。

 翠色。

 春の葉っぱみたいな色。

 白岡の氷青は、私の背筋を勝手に伸ばす。

 奏の翠色は、伸びすぎた背中を元の高さに戻す。

 何度も見てきた色だからだと思う。

 たぶん。


「盗み聞き?」


「人聞き悪いな。通りかかっただけ」


「絶対嘘」


「半分ほんと」


「半分嘘ってことでしょ」


「細かいなー」


 奏は欠伸をしながら、掲示板の方へ視線を向けた。


「白岡と話してたんだ」


「見れば分かるでしょ」


「いや、見たけど。何話したん?」


「春大会、出るのかって」


「で、出るって言った?」


「言った」


「じゃ、申請しろよ」


「今からするつもりだった」


「ほんとかー?」


「ほんと」


 私は掲示板の下に置かれていた申請用紙を一枚取った。

 その紙を持つだけで、少しだけ手が熱くなる。

 出る。

 そう決めたはずなのに、紙に名前を書くとなると、急に現実味が増す。


「灯里」


「何」


「ペン、逆」


「……分かってた」


「絶対分かってなかった」


「分かってた」


 奏が笑う。

 私はペンを持ち直した。

 申請用紙には、学年、クラス、氏名、希望練習枠、使用曲の仮記入欄があった。


 使用曲。


 そこはまだ空欄でいいらしい。

 助かった。

 雪解けに合う曲なんて、今の私にはすぐに思いつかない。

 名前を書く。

 朝霞灯里。

 自分の名前が紙に乗った瞬間、引き返せなくなった気がした。

 別に、引き返すつもりなんてないけど。


「おー、書いた」


「見ないで」


「いや隣にいるし」


「じゃあ隣にいないで」


「ひど」


 奏は言いながら、自分も申請用紙を一枚取った。


「奏も出るの?」


「まあ、一応」


「一応で出るものじゃないでしょ」


「出る出る。本気本気」


「軽い」


「軽く言ってるだけで、中身は重いかもしれないだろ」


「奏に限って?」


「ひどくね?」


 奏は笑いながら、さらさらと自分の名前を書いた。

 長瀞奏。

 字が意外と雑ではない。

 そこが少しずるいと思う。


「かなめは?」


「出るんじゃね? あいつ、朝から雪解け雪解けうるさかったし」


「いつもうるさいけど」


「今日は三割増し」


「普段が十割なら、十三割?」


「だいたいそんな感じ」


 かなめなら、本当に十三割くらいで騒ぐと思う。

 春大会、雪解け、澪嶺さん、るな、お兄ちゃん。

 たぶん、話題が多すぎて本人の中で全部混ざっている。


「かなめ、澪嶺さんも出るって言ってた」


「澪嶺さん呼び、まだやってんのか」


「同じクラスだから、距離感を大切にしてるらしい」


「かなめの距離感、壊れてるだろ」


「奏が言う?」


「俺は普通」


「普通ではないと思う」


「お前に言われたくねー」


 奏は申請用紙を書き終えると、軽く振ってインクを乾かした。

 その手首で、エメラルドの色が揺れる。

 濃い緑。

 明るいのに、妙に深い色。

 私はまた少し、呼吸の位置が戻る。

 白岡と話したあと、気づかないうちに浅くなっていたのかもしれない。


「灯里」


「何」


「雪解け、どうするつもり?」


「まだ決めてない」


「さっき白岡に、溶かすって言ってたじゃん」


「盗み聞きしてる」


「聞こえたんだって。廊下だし」


「盗み聞きじゃん」


「はいはい、盗み聞きしましたー」


「認め方が雑」


 奏は悪びれずに笑った。


「でもまあ、お前らしいんじゃね。溶かすって」


「そう?」


「うん。灯里はだいたい、力技でどうにかしようとするし」


「褒めてない」


「褒めてる褒めてる」


「絶対褒めてない」


「半分くらい褒めてる」


「半分は?」


「心配」


 軽く言われたのに、少しだけ胸に引っかかった。

 奏はそういう言い方をする。

 テキトーで、雑で、ふざけているのに、たまに妙なところだけ真面目になる。

 私はそれが少し苦手だ。

 返し方に困るから。


「心配されるようなことしない」


「それ朝、陽斗さんにも言ってそう」


「言った」


「で、信じてもらえなかっただろ」


「なんで分かるの」


「灯里だから」


「理由になってない」


「なってるんだよなー」


 奏は申請用紙を持って歩き出した。

 私もそれについていく。

 職員室前の回収箱に紙を入れるだけなのに、なぜか少し緊張した。

 箱の中には、すでに何枚も申請用紙が入っている。

 私は自分の紙を入れる。

 小さな紙が箱の中に落ちる。

 それだけ。

 それだけなのに、左手首がまた少し熱を持った。


「はい、出場決定」


 奏が言った。


「まだ決定じゃない。申請しただけ」


「ほぼ決定だろ」


「ほぼって何」


「ほぼはほぼ」


「雑」


「俺だし」


 そう言われると、何も言い返せない。

 教室に戻ると、二年四組はまだ騒がしかった。

 ムードメーカーくんが、黒板の端に勝手に「春大会がんばろう週間」と書いている。

 まだ一日目なのに。


「それ、誰が許可したの」


 私が言うと、彼は振り返って笑った。


「瑠璃ちゃんせんせーが、消せとは言わなかった」


「許可じゃないでしょ」


「黙認は許可の親戚」


「違うと思う」


 隣の大人しい女子が、小さく頷いた。


「違うと思う」


「ほら」


「二対一はずるくない?」


 彼は笑いながらチョークを置いた。

 黒板の文字は大きくて、少し曲がっている。

 でも、明るい。

 私は席に戻り、鞄を置いた。

 隣の女子が、控えめにこちらを見る。


「あの」


「何?」


「申請、したんだ」


「……見てた?」


「ううん。手に紙、なかったから」


「ああ」


 言われてみれば、確かにそうだ。

 私は少しだけ袖を直した。


「したけど、別に大したことじゃない」


「そうなんだ」


 女子は素直に頷いた。

 否定も肯定もしない。

 ただ、そのまま受け取ったみたいだった。

 少し不思議な子だ。


「朝霞さんは、すごいって言われるの、苦手?」


「え?」


「さっき、二位の話をした時、嫌そうだったから」


 静かな声だった。

 責める感じではない。

 ただ、見たことをそのまま言っているみたいだった。


「……一位じゃないから」


「でも、二位はすごいと思う」


「すごくない」


「そうかな」


「そう」


 私が少し強めに言うと、女子は目を伏せた。

 しまった。

 言い方がきつかったかもしれない。


「……別に、あなたが変なこと言ったわけじゃないけど」


「うん」


「私が、そう思ってるだけ」


「うん」


 女子はまた頷いた。

 穏やかだった。

 奏やかなめとは違う。

 るなとも違う。

 この子は、騒がない。

 騒がないのに、たまに妙に近いところに言葉を置いてくる。

 名前を聞こうかと思った。

 けれど、その前に教室の前から声が飛んできた。


「はーい、そこ。初日からしっとり交流してるところ、悪いけどプリント後ろに回してくださーい」


 瑠璃先生だった。

 いつの間に戻ってきたのか、教卓の上にプリントの束を置いている。

 隣の女子は慌てて前から回ってきたプリントを受け取った。


「すみません」


「謝るほどのことじゃないです。青春っぽかったので雑に割りました」


「割らないでください」


 私が言うと、瑠璃先生は眠そうな顔のままこちらを見た。


「朝霞さん、隣の子とも仲良くしてくださいね」


 ムードメーカーの男子が手を挙げる。


「先生、俺も朝霞さんと仲良くしていいですか!」


「いいですよ。噛まれない範囲で」


「噛みません」


「朝霞さん、噛まない宣言いただきました」


「何の確認ですか」


「クラス運営です」


 雑すぎる。

 でも、教室は明るかった。

 私は少しだけ、肩の力を抜く。

 たぶん、このクラスはうるさい。

 奏がいて、変な男子がいて、隣に静かな子がいて、担任が雑で。

 面倒な一年になりそうだと思った。

 けれど。

 少しだけ、悪くないとも思った。

 昼休みになると、かなめが本当に四組まで突撃してきた。


「灯里ちゃん! お昼! 一緒に食べる!」


「七組は?」


「置いてきた!」


「置いてきたって何」


「教室!」


「教室は置いてくるものじゃない」


 かなめは当然のように私の机の前に立った。

 そして奏を見る。


「お兄ちゃん、席替わって!」


「やだ」


「即答!?」


「昼くらい静かに食わせろ」


「私がいるとにぎやかでしょ!」


「だからだよ」


「ひどい!」


 奏はパンの袋を開けながら、かなめを雑にあしらっている。

 かなめはむっとした顔をしながらも、なぜか嬉しそうだった。


「灯里ちゃん、春大会申請した?」


「した」


「やっぱり!私もする!澪嶺さんも出るし、るなも出るし、お兄ちゃんも出るし、私も出る!つまり春大会、忙しい!」


「忙しいの基準が分からない」


「全部見なきゃだから!」


「出る側でしょ」


「出るし見る!」


「無理じゃない?」


「気合い!」


 かなめは弁当箱を開けた。

 明るい色のおかずがぎっしり詰まっている。

 本人みたいな弁当だと思った。


「灯里ちゃんは、雪解けどうするの?」


「まだ決めてない」


「溶かす?」


「みんなそれ言う」


「灯里ちゃんっぽいもん!」


「そうかな」


「そう! ばーって燃やして、ぐわーって溶かす!」


「語彙」


「伝わるでしょ!」


「勢いだけは」


 かなめは胸を張った。

 その横で、奏がぼそっと言う。


「でもまあ、ばーってぐわーってだけだと負けそうだよな」


 箸を持つ手が止まる。

 奏はパンをかじりながら、特に深刻そうでもなく続けた。


「雪解けって、溶けたあともあるじゃん。水になって流れるとか、地面が見えるとか、なんかそういうの」


「奏がまともなこと言った」


「俺、たまに言うぞ」


「たまに?」


「たまに」


 かなめが目を輝かせた。


「お兄ちゃん、天才!今のすごい!雪が溶けて流れて春になる!かっこいい!」


「うるさ」


「褒めてるのに!」


「声量が褒める量を超えてる」


 私は小さく息を吐いた。

 溶かしたあと。

 そんなこと、少し考えれば分かるはずなのに。

 私はやっぱり、ただ溶かすことしか考えていなかった。

 燃やす。

 勝つ。

 超える。

 その先を、たぶん見ていない。


「……まあ、私にはそれくらいでしょ」


 思わず、そう言っていた。

 奏がこちらを見る。

 かなめも見る。

 隣の女子も、少しだけ顔を上げた。


「灯里」


 奏が、パンの袋を置いた。


「そういうとこ」


「何」


「勝手に自分の範囲を狭くすんなって話」


「別に狭くしてない」


「してるしてる。めっちゃしてる」


「してない」


「してる」


 奏はいつもの軽い調子だった。

 でも、目だけは少しだけ真面目だった。


「お前、できないって決めるの早いんだよ」


「そんなことない」


「ある」


「ない」


「ある。幼馴染判定ではある」


「何それ」


「歴史ある判定」


 かなめが横から勢いよく頷いた。


「私もそう思う!灯里ちゃん、すぐ自分のこと下に見る!よくない!私が許さない!」


「かなめに許可を取ることじゃない」


「取って!」


「取らない」


「取って!」


「うるさい」


「うるさく言ってるの!」


「知ってる」


 かなめの勢いに押されて、変な空気になりかけたものが少しだけ明るく戻る。


 その時、隣の女子が小さく言った。


「でも、朝霞さんの色、雪にあったら綺麗だと思う」


 全員が少しだけ黙った。

 隣の女子は、言ったあとで自分でも驚いたみたいに目を伏せた。


「あ、ごめん。急に」


「いや」


 私はどう返せばいいか分からなかった。

 綺麗。

 私の色が。

 雪に。


「……見たことないでしょ」


「うん」


「じゃあ分からないじゃん」


「でも、そう思った」


 女子は静かに言った。

 そのまま受け取るには、少し照れくさい言葉だった。

 私は弁当箱の中の卵焼きを箸でつつく。


「変なこと言うね」


「ごめん」


「謝らなくていいけど」


「うん」


 奏がにやっと笑った。


「灯里、照れてる?」


「照れてない」


「耳赤いぞ」


「赤くない」


「赤い赤い」


「見ないで」


「はいはい」


 かなめが勢いよく身を乗り出した。


「灯里ちゃん照れてるの!? かわいい!」


「うるさい」


「照れてる灯里ちゃん、貴重!」


「貴重じゃない」


「保存したい!」


「やめて」


 かなめの声で、昼休みの四組はさらに騒がしくなった。

 うるさいのが遠くから「朝霞さん照れてるってマジ?」と反応し、私は本気で睨んだ。


「噛まれるかも!」


「噛まない!」


 教室が笑う。

 笑われているのに、不思議と嫌な感じはしなかった。

 たぶん、馬鹿にされているわけではないから。

 たぶん。

 放課後。

 私は一人で校舎裏の桜並木を歩いていた。

 春大会の申請は終わった。

 テーマは雪解け。

 白岡は出る。

 るなも出る。

 奏も、かなめも出るらしい。

 考えることが多い。

 多すぎる。

 なのに、頭に残るのは、白岡の声だった。


 ――あなたは、雪をどうしますか。


 溶かす。

 それしか言えなかった。

 それが悪いとは思わない。

 でも、足りない気がする。

 足りない。

 私の炎は、いつも何かが足りない。


 だから、負けた。


 前回も。

 たぶん、これからも。


「灯里」


 また奏の声がした。

 振り返ると、奏が少し離れたところに立っていた。


「ついてきたの?」


「帰り道こっち」


「嘘」


「半分ほんと」


「また半分」


 奏は私の隣まで来て、並んで歩き出した。

 桜の花びらが、奏の肩に一枚落ちる。

 奏は気づいていない。


「ついてる」


「何が?」


「桜」


「取って」


「自分で取って」


「冷た」


 奏は肩を払った。花びらは落ちずに、逆に襟元に移動した。


「取れてない」


「まじか」


「不器用」


「花びら相手に不器用とかある?」


「あるんじゃない」


 私が手を伸ばして、花びらを取った。

 奏の炉飾りが、手首で少し揺れる。


 濃い翠色。


 何度も見た色。

 小さい頃から、ずっと近くにあった色。

 白岡の色を見ると、私は勝手に姿勢を正してしまう。

 奏の色を見ると、少しだけ歩幅が戻る。

 競わなくていい場所に、一瞬だけ戻される。


「ありがと」


「別に」


 私は花びらを指先から離した。

 風に乗って、薄い桜色が流れていく。


「なあ、灯里」


「何」


「白岡、気になる?」


 足が止まりかけた。


「は?」


「いや、ライバルとして」


「……それなら、気になる」


「なら?」


「ならって何」


「別に」


 奏は少し笑った。

 何か含んでいるような顔だったけれど、すぐにいつものテキトーな顔に戻る。


「まあ、勝ちたい相手がいるのはいいことなんじゃね」


「簡単に言う」


「難しく言っても同じだろ」


「同じじゃない」


「同じ同じ」


「雑」


「俺だからな」


 その言い方は、少しずるい。

 奏が雑なのは、昔からだ。

 でも、その雑さに何度も助けられている。

 それも昔から。


「灯里はさ」


 奏が、桜並木の先を見ながら言った。


「別に、白岡と同じやり方しなくていいんじゃね」


「急に何」


「思っただけ」


「白岡と同じやり方なんて、できない」


「できないっていうか、しなくてよくねって話」


「……何が違うの」


「結構違う」


 奏は手首のミサンガを軽く指で弾いた。

 翠色が、夕方の光に少しだけ沈む。


「白岡は白岡で、灯里は灯里だろ」


「それ、何の解決にもなってない」


「解決しようとしてないし」


「じゃあ何」


「幼馴染っぽいこと言ってる」


「自分で言う?」


「言う言う」


 奏は笑った。

 私は少しだけ呆れた。

 でも、胸の奥のざらつきは、さっきより少しだけ軽くなっていた。

 悔しいけど。

 奏のこういう雑な言葉は、たまに効く。


「奏」


「ん?」


「春大会、ちゃんと出るんだよね」


「出るって」


「一応じゃなくて?」


「一応じゃなくて、まあまあちゃんと」


「まあまあなんだ」


「俺にしてはかなりちゃんと」


「分かりにくい」


「灯里と同じ大会出るの、久しぶりだしな」


 そう言われて、私は少し黙った。

 幼馴染。

 小さい頃から近くにいた。

 かなめも、奏も。

 私が自分のことをよく分からなくなっても、この二人はだいたい近くにいた。

 うるさくて、雑で、勝手で。

 でも、いないと少し困る。

 そういう存在。


「何」


 奏がこちらを見る。


「別に」


「なんか言いたそうな顔してた」


「してない」


「してた」


「してない」


「じゃあ、そういうことにしとく」


「何それ」


 奏は笑った。

 校門の方から、かなめの声が聞こえた。


「お兄ちゃーーん!灯里ちゃーーん!置いてかないでーー!」


 声だけで分かる。

 ものすごく走っている。

 奏は本気で少し引いた顔をした。


「来た」


「来たね」


「逃げるか」


「逃げたら余計うるさいと思う」


「だよなー」


 かなめが全力でこちらへ走ってくる。

 その後ろから、るなと玲央も歩いてきていた。

 るなは手を振っている。


「かなめ、ガチ走りじゃん。ウケる」


「ウケない! るながのんびり歩くから!」


「いや、走れって言ってないし」


「お兄ちゃんが遠くに行くのが悪い!」


「俺のせいかよ」


 かなめが息を切らしながら、奏の腕を掴んだ。


「お兄ちゃん、勝手に帰らないで!」


「帰るだろ、放課後だし」


「私も帰る!」


「知ってる」


「じゃあ待って!」


「声で追ってくるから分かるかなって」


「ひどい!」


 るなが笑い、玲央がため息をつく。

 私はその様子を見ながら、左手首の袖を少しだけ直した。

 石は、ほんのり温かかった。

 春大会。

 雪解け。

 白岡澪嶺。

 考えることは多い。

 怖くないと言えば、嘘になる。

 でも、隣には奏がいて、後ろからかなめの声が追ってくる。

 それだけで、少しだけ歩きやすくなる。

 私はそれを、ありがたいとは言わない。

 言ったら、たぶん調子に乗られるから。


「灯里ちゃん、帰りにコンビニ寄ろ!」


「なんで」


「春大会申請記念!」


「何それ」


「記念は作るもの!」


「うるさい」


「行くよね!?」


「……行かないとは言ってない」


「やった!」


 かなめが跳ねる。

 奏が「ちょろ」と呟いたので、私は軽く睨んだ。


「何か言った?」


「何も」


「言った」


「言ってない」


 桜の下で、かなめの声と、るなの笑い声と、奏のテキトーな返事が混ざっていく。

 その騒がしさの中で、私は一度だけ校舎を振り返った。

 白岡の姿は、もうどこにもなかった。

 それなのに、あの涼しい声だけが、まだ耳の奥に残っている。

 申請用紙は、もう箱の中だ。

 春は、始まってしまった。


 ――あなたならは、雪をどうしますか?


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