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3 : 銅色の雨音

 朝から、空が重かった。

 桜はまだ残っている。 

 けれど、灰色の雲の下では、昨日までより少し湿って見えた。


「灯里、傘」


 玄関で母に呼び止められた。


「大丈夫。降ってないし」


「降りそうだから言ってるの」


 返事をする前に、リビングから兄の声が飛んできた。


「そう言って傘持たない灯里、かわいいな」


「黙って」


「濡れたら兄に連絡してね。迎えに行くから」


「来ないで」


「正門前までなら行ける」


「来ないで」


「二回言った」


「二回言う必要があったから」


 母が差し出してきたのは、桜色の折りたたみ傘だった。

 少し迷ってから、私はそれを鞄に入れる。


「えらい。かわいい」


「傘返す」


「ごめん。返さないで。濡れないで」


 朝から面倒くさい。

 けれど、空気は確かに雨の匂いがした。

 学校へ向かう道では、炉飾りの色もどこか鈍く見えた。

 私の左手首の橙朱も、袖の奥で静かに沈んでいる。


「灯里ちゃーーん!」


 その湿った空気を、長瀞かなめの声が破った。

 今日も元気すぎる。

 隣には奏がいて、眠そうに片手を上げている。


「雨降りそう!でも私は元気!お兄ちゃんは眠そう!つまり通常!」


「朝から実況しないで」


「状況共有!」


「声量が不要」


「灯里、傘持ってきた?」


 奏が欠伸まじりに聞いてくる。


「持ってきた」


「お、えらい」


「子ども扱いしないで」


「じゃあ、準備いいね」


「それもなんか嫌」


「めんどくせー」


 奏は笑った。

 その手首の濃い翠は、曇った朝でも変わらず落ち着いている。

 白岡の氷青とは違う。

 あの色は背筋を伸ばす。

 奏の翠は、歩幅を戻す。


「あ、いたいた。朝から三人セットじゃん」


 後ろから明るい声がした。

 曇り空の下の銅色は、派手というより、濡れた金属みたいだった。


「るな!」


 かなめの声が即座に跳ねる。


「朝からお兄ちゃんの近くに来ないで!」


「いや、あんたらが道の真ん中にいるんだけど?」


「じゃあ別の道通って!」


「無茶言うじゃん。ウケる」


「ウケない!」


 るなは笑った。

 その笑い方は軽い。

 歩き方も、手の振り方も、全部が軽い。

 でも、チョーカーの銅色はあまり揺れていなかった。


「かなめ、今日も元気すぎ。雨雲逃げるよ」


「逃げればいい! 雨降ったら髪が崩れる!」


「そこ気にするんだ」


「気にするよ! 私だって女子だもん!」


「知ってる知ってる。かわいーよ」


「かわいいで雑に処理するな!」


「雑じゃないって。ちゃんとかわいーって思ってるし」


 かなめの髪留めの紫色が、ほんの少し濁った。

 怒っているのか、照れているのか、たぶん両方。

 るなはそれを見て、にやっと笑う。


「また妬いた?」


「妬いてない!」


「色が言ってる」


「見るな!」


「見えたんだって」


 奏が少し引いた顔をした。


「朝からカロリー高いな、お前ら」


「お兄ちゃんが助けてくれないから!」


「助けたら余計めんどくさくなるだろ」


「冷静に見捨てないで!」


 校門をくぐる頃、小さな雨粒が落ちてきた。


「あ、降ってきた」


 るなが空を見上げる。


「うわ、マジじゃん。今日、傘持ってないかも」


「持ってないの!?」


 後ろから玲央が小走りで来た。

 手には二本の折りたたみ傘。


「姉さんが忘れると思ったから持ってきた」


「玲央、ナイスタイミング」


「ナイスタイミングじゃないよ」


「さすが弟。優秀ー」


「褒めればいいと思ってるでしょ」


「思ってる」


「思わないで」


 玲央はため息をつきながら、るなに傘を渡した。

 るなは笑って受け取る。

 軽い姉と、しっかりした弟。

 見ているだけで、だいたい分かる関係だった。

 二年四組に入ると、窓に細かい雨粒がついていた。

 昨日のうるさいのが、黒板の端に残った「春大会がんばろう週間」を指差している。


「雨じゃん。春大会テーマ、雪解けなのに先に雨来たな」


「関係ある?」


「雰囲気?」


「適当」


「適当は大事だよ、朝霞さん」


 隣の大人しい女子が、小さく首を横に振った。


「たぶん、大事じゃない」


「二人して厳しくない?」


 教室が少し笑った。

 雨の日は滑る。


 放課後になっても、雨は続いていた。

 昇降口で桜色の傘を開くと、なんとなく落ち着かない。

 兄に見られたら絶対にうるさい。

 それだけは避けたい。


「灯里!」


 振り返ると、るながいた。

 その後ろには、かなめと玲央もいる。


「ちょい付き合ってよ」


「何に」


「雨の日のステップ確認」


「練習室予約してないでしょ」


「練習室じゃなくてもできるやつ。屋根あるとこでちょっとだけ」


「先生に怒られない?」


「炎出さなきゃセーフっしょ」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんでやるの」


 るなは笑いながら、昇降口横の屋根付きの渡り廊下へ向かった。

 玲央がすぐに口を挟む。


「姉さん、床濡れてるから本当に気をつけて」


「わかってるって」


「わかってない時の返事だよ、それ」


「玲央、心配性ー」


「姉さんが雑だから」


「ギャルは雑なくらいがかわいいの」


「競技中はかわいさより安全」


「正論きつー」


 軽く返しながらも、るなは渡り廊下に入ると、床を足先で確かめた。

 水の残り方。

 靴底の引っかかり。

 滑る場所と、踏める場所。

 笑っている顔のまま、ちゃんと見ている。

 それが少し意外だった。


「灯里、見てて」


「何を」


「雨の日っぽいやつ」


「雑」


「いいからいいから」


 るなは傘を閉じ、軽く息を吸った。

 首元の銅色が、雨の薄暗い光を受けて鈍く輝く。

 音楽はない。

 炎も出していない。

 ただ、雨音だけがあった。

 屋根を叩く細かい音。

 地面を跳ねる音。

 排水溝へ流れていく、低い音。

 るなは、その中へ一歩踏み出した。

 足先が、水の膜を避ける。

 膝が柔らかく沈む。

 次の一歩で、濡れた床を弾くように回った。

 軽い。

 けれど、雑じゃない。

 雨音に合わせているのではなく、雨音の中から自分の拍だけを拾っているみたいだった。


 とん。

 靴底が鳴る。

 ぱら、と屋根が鳴る。

 傘の柄が指先で回り、肩へ滑り、また手元へ戻る。

 その動きに合わせて、首元の銅色が鈍く瞬いた。

 派手な光ではない。

 温度のある金属が、雨に濡れて、それでも内側に熱を残しているような色。

 るなの身体は、雨のせいで重くなった空気を、逆に軽くしていた。

 足を滑らせそうな場所で、滑らない。

 止まりそうな音を、止めない。

 濡れた床を嫌がるのではなく、使っている。


 私は思わず息を止めていた。

 るなは、いつも軽い。

 何でも笑って流して、かなめをからかって、制服も言葉も少し崩している。

 でも、その軽さは、何も考えていない軽さじゃない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう思った。

 最後にるなは、傘を肩に戻して、くるりとこちらを向いた。


「どう?」


「……上手い」


 思ったまま言うと、るなは少し目を丸くした。


「灯里って、そういうとこ素直だよね」


「今のは見れば分かるでしょ」


「いやー、褒められた。テンション上がる」


「褒めてない。上手いって言っただけ」


「それ褒めてるんだよ」


 るなは笑った。

 かなめが、はっと我に返ったように叫ぶ。


「るな、なんでそんなに動けるの!」


「なんでって、練習してるから?」


「軽く言うな!」


「重く言った方がいい? 日々の積み重ねと努力の賜物です」


「それも腹立つ!」


「かなめ、怒る方向が忙しすぎ」


 るなが笑うと、かなめの髪留めがまた少し濁った。


「また妬いた?」


「妬いてない!」


「妬いてる色してる」


「見るな!」


「見えたって」


 玲央がため息をつく。


「姉さん、かなめ先輩を煽りすぎ」


「だって反応かわいーし」


「それで春大会前に恨まれても知らないよ」


「かなめは恨んでも分かりやすいから大丈夫」


「大丈夫の基準がおかしい」


 玲央はそう言ってから、少しだけ真面目な顔でるなを見た。


「姉さん、普段はああですけど、勝負のことは軽くないので」


 私は、もう一度るなを見る。

 銅色のチョーカー。

 雨。

 軽い笑い方。

 濡れた床の上でも崩れなかった足運び。

 軽そうに見える。

 でも、()()()()()()()()

 たぶん、るなは強い。


「灯里」


 るなが傘の先で、床に落ちた雨粒をつついた。

 ぽつ、と小さな音がする。


「春のテーマ、雪解けじゃん」


「うん」


「雪ってさ、溶けると水になるっしょ」


「そうだね」


「で、水になる時って音あるじゃん。ぽたって落ちる音とか、地面を流れる音とか。雨も近いと思わない?」


 雨音が、屋根の上で細かく重なる。


「雪解けって、白とか青だけじゃなくてさ。濡れて、ぬるくなって、ちょっと()()っぽい匂いもして、そういうのもありじゃん」


「金属?」


「あたしの色、銅だし」


 るなは首元の石を指で弾いた。

 銅色が、雨の中で鈍く光る。


「銅って熱、伝わりやすいんだって。だから、溶かすのも、燃やすだけじゃないかなーって」


 軽い口調だった。

 けれど、言っていることは軽くなかった。

 熱を、伝える。

 燃やすのではなく。

 押しつけるのでもなく。

 届かせて、ほどく。

 私の中にある「溶かす」は、ただ強く燃やすことに近かった。

 白いものを、橙朱で塗りつぶす。

 寒いものを、熱で壊す。

 それ以外を、あまり考えていなかった。


 でも、るなの銅色は違った。


 雨の音を拾って、床の濡れ方を見て、自分の熱を薄く広げるみたいに動く。

 雪解けには、そういう溶け方もある。

 そう思わされた。


「……考えてるんだ」


「ひどくない?」


「そういう意味じゃない」


「まあ、あたしギャルだからね。考えてなさそーに見えるのも込みでかわいいってことで」


「自分で言う?」


「言う言う」


 るなは笑った。

 でも、もう同じ笑い方には見えなかった。

 軽い。

 でも、軽く見せている。

 ちゃんと()()()()()()の笑い方だった。


「灯里ちゃん!」


 かなめが急に私の腕を掴んだ。


「私も考える!すごいやつ!お兄ちゃんが感動するやつ!」


「目的が奏になってる」


「いいの!お兄ちゃんに見てほしいもん!」


「分かりやすい」


「灯里ちゃんも、澪嶺さんに見せるんでしょ?」


 心臓が一瞬だけ変な音を立てた気がした。


「……何を」


「春大会のやつ!」


「ああ」


 そういう意味か。

 そういう意味に決まっている。


「別に、白岡に見せるためじゃない」


「えー?でも勝ちたいんでしょ?」


「勝ちたいだけ」


「じゃあ見せるじゃん!」


「それは結果的に」


「結果的に見せる!」


「うるさい」


 かなめは楽しそうに笑っている。

 たぶん、何も変な意味では言っていない。

 私は少しだけ袖を押さえた。

 白岡に見せるためじゃない。

 勝ちたいだけ。

 前回負けたから。

 悔しいから。

 理由はそれだけ。

 それだけのはず。

 雨音が、少し強くなった。

 るなはその音を聞いて、満足そうに笑う。


「ね、雨ってけっこう踊れるっしょ」


「雨が踊るわけじゃないでしょ」


「灯里、固ーい」


「普通」


「普通じゃつまんないよ」


 るなは傘を開いた。

 銅色の石が、雨粒の向こうで光る。


「春大会、楽しみだね」


「……うん」


 素直に頷くと、るなは少しだけ目を細めた。


「灯里ってさ、たまに急に素直になるよね」


「ならない」


「今なった」


「なってない」


「なってたって」


「なってない」


 皆が少しだけ笑った。

 私は傘を握り直す。

 雨の音。

 銅色の光。

 るなの軽い足取り。

 雪解けは、ただ雪が溶けるだけじゃない。

 音がある。

 熱の伝わり方がある。

 水になる瞬間がある。


 私は、まだそれを知らない。


 私が知っているのは、燃やすことだけだ。

 溶かすことだけだ。

 でも、それだけでは足りない。

 校舎の向こうで、雨が降り続いている。

 桜色だった季節に、銅色の音が混ざっていく。


 私はまだ、その音を出せない。


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