1:桜色の炉飾り
いい味出せそうなので投稿
よろしくお願いします♪
四月の朝は、やけに明るい。
窓の外で、桜が咲いていた。
薄い花びらが風に浮いて、道路の上へゆっくり落ちていく。
新学期だからって、世界まで張り切らなくていいのに。
私は鏡の前で、制服のリボンを直した。
彩陵学院高等部、二年生。
今日から、そういう扱いになる。
でも、学年が一つ上がったからって、急に何かが変わるわけじゃない。
昨日まで出来なかったことが今日から出来るようになるわけでもないし、去年負けた事実が消えるわけでもない。
だから、別にめでたくない。
「……曲がってないよね」
リボンを指でつまんで、もう一度だけ鏡を見る。
たぶん、大丈夫。
机の上には、細いブレスレット型の炉飾りが置いてあった。
銀色の輪に、小さな透明石が一つ。
私はそれを左手首につける。
留め具が小さく鳴って、透明だった石の奥に、じんわりと色が灯った。
橙朱。
赤ほど派手じゃない。橙ほど軽くもない。どっちつかずみたいな色。
私の色。
嫌い、というほどじゃない。
でも、好きだと言うには少し抵抗がある。
私は袖を少し下ろして、石を半分隠した。
「灯里ー、ごはん冷めるわよ」
下から母の声がした。
「今行く」
返事をして、部屋を出る。
リビングには、いつも通り母がいて、いつも通り味噌汁の匂いがした。
朝霞春乃。
私と兄の母。
母は朝からちゃんと母だった。
穏やかで、少し楽しそうで、でもこちらを見すぎない距離にいる。
「おはよう。二年生初日、どう?」
「どうって何」
「気分とか」
「普通」
「普通ならよかった」
何がよかったのかは、よく分からない。
私は椅子に座って、箸を取った。
その瞬間、向かいから兄が身を乗り出してきた。
「灯里、今日もかわいいな」
「帰って」
「ここ俺の家でもあるんだけど」
「じゃあ黙って」
「え、かわいい妹にかわいいって言っただけで黙れって言われるの? お兄ちゃんの人権は?」
「朝からうるさい人に人権を主張されても困る」
朝霞陽斗。
私の兄。
今年から彩陵学院大学の一年生で、もう高等部の生徒ではない。
なのに、朝の存在感だけは全然薄くならない。
むしろ、卒業してからの方が絡みが雑になった気さえする。
「灯里、リボン曲がってない?」
「えっ」
思わず手を伸ばす。
陽斗はにやっと笑った。
「うそ。曲がってない。完璧。かわいい」
「最低」
「引っかかる灯里が悪い」
「兄を名乗らないで」
「名乗るよ。灯里のお兄ちゃんだから」
「うるさい」
母が味噌汁を置きながら、苦笑した。
「陽斗、朝から灯里をからかいすぎ」
「からかってない。愛でてる」
「余計に悪い」
私は卵焼きを口に入れた。
甘い。
母の卵焼きはいつも少し甘い。
春の朝には、まあ、悪くない。
「春、出るんだろ」
陽斗が何でもない顔で言った。
私は少しだけ箸を止めた。
「まだ申請してない」
「出るじゃん」
「申請してないって言った」
「申請してないだけで、出る気はあるってことだろ?」
「勝手に決めないで」
「出ないの?」
「……出ないとは言ってない」
「ほら」
陽斗が勝ち誇った顔をする。
腹が立つ。
兄妹だからって、なんでも分かった顔をしないでほしい。
「灯里」
陽斗の声が少しだけ柔らかくなった。
「無茶すんなよ」
「しない」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「お前の“しない”は、だいたい“バレないようにする”って意味だから信用してない」
「ひどい」
「実績がある」
「ない」
「ある」
「ない」
「ある。かわいい妹のことは、お兄ちゃん全部覚えてる」
「やめて。気持ち悪い」
「辛辣」
陽斗は笑った。
でも、その目は少しだけ真面目だった。
たぶん、心配している。
そういうのは分かる。
分かるけど、だからって素直に受け取れるかは別だ。
「私は別に、子どもじゃない」
「子どもじゃない灯里もかわいいよ」
「そういうところ」
「どういうところ?」
「全部」
母が小さく笑う。
左手首が、袖の下で少しだけ温かい気がした。
気のせいかもしれない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「灯里、変な男に声かけられたら兄に連絡」
「しない」
「した方がいい。兄は強い」
「卒業生は高等部に入れないでしょ」
「正門前までは行ける」
「来ないで」
「冷たい。でもかわいい」
ドアを閉める直前まで、陽斗の声が追ってきた。
朝から疲れる。
外に出ると、桜の匂いがした。
風は少し冷たくて、でも日差しは春だった。
校門へ向かう道には、同じ制服の生徒がたくさんいた。
耳元で青い石を揺らしている子。
指輪をくるくる回している子。
襟元のピンを友達に見せて笑っている子。
私と同じように、袖で手首を半分隠している子。
桜の下では、いろんな色がちらちら光っていた。
見ないようにしても、目に入る。
目に入るけど、じっとは見ない。
そういうものだ。
「灯里ちゃーーーん!」
背後から、ものすごい声がした。
振り返る前から誰か分かる。
長瀞かなめ。
私の幼馴染で、長瀞奏の双子の妹。
そして、朝から元気がありすぎる人間。
「灯里ちゃん!おはよう!桜!新学期!二年生!今日から!新しい!私たち!」
「うるさい。あと単語を投げつけないで」
「朝は元気に挨拶って決まってるの!」
「近所迷惑とも言う」
「学校の近くだからセーフ!」
「むしろアウトでしょ」
かなめはにこにこしながら私の隣に並んだ。
髪留めの石には、ヴァイオレット色が灯っている。
よく動く。
本人が動くから、色まで落ち着かないように見える。
「灯里ちゃん四組でしょ!?お兄ちゃんも四組なんだよ!?ずるい!ずるいずるいずるい!」
「学校に言って」
「言ったら変わるかな!?」
「変わらないと思う」
「むー! じゃあ灯里ちゃん、毎日お兄ちゃんの観察結果を私に報告して!」
「しない」
「なんで!?」
「怖いから」
「愛だよ!」
「怖い愛もある」
かなめは両手をぶんぶん振った。
朝からうるさい。でも、かなめがいると、周りの空気が勝手に明るくなる。
本人はたぶん気づいていない。
「かなめ、朝から声でけー」
前方から、眠そうな声がした。
長瀞奏が、片手をひらひら振っている。
制服のネクタイは少し緩い。
髪も若干跳ねている。
ちゃんとしているようで、全体的にテキトー。
「お兄ちゃん!」
かなめが一瞬でそっちへ飛んでいった。
「お兄ちゃん!なんで私を置いていったの!?双子なのに!同じ朝を共有する運命共同体なのに!」
「朝から重いんだよ。あと眠い」
「ひどい!」
「はいはい、ひどいひどい。今日も元気でえらいなー」
「雑!」
「褒めてる褒めてる」
「絶対褒めてない!」
奏はかなめの頭をぽん、と雑に叩いた。
かなめは怒った顔をしているけれど、どこか嬉しそうだった。
分かりやすい。
「灯里もおはよ」
「おはよう」
「顔、朝から通常運転だな」
「どういう意味」
「ちょっと世界に不満あります、みたいな顔」
「ない」
「あるだろ。桜にも文句言ってそう」
「言ってない」
少し言った。
心の中で。
でも言ってないことにする。
「あ、奏じゃーん。かなめも朝から爆音じゃん。マジ元気すぎ」
明るい声が、斜め後ろから飛んできた。
入間るな。
髪はふわっと巻いていて、制服も校則ぎりぎりで可愛い。
首元のチョーカーには、銅色の光が灯っている。
るなは、ちゃんとギャルだった。
歩くだけで周りの空気が少し派手になる。
喋るともっと派手になる。
「るな!」
かなめの声が、さらに大きくなる。
「朝からお兄ちゃんに声かけないで!」
「いや、最初に奏の名前呼んだだけじゃん?」
「それがだめなの!」
「えー、独占欲つよ。かわいー」
「かわいいで済ませようとすんな!」
「割と済むっしょ」
「済まない!」
るなは笑いながら、かなめの髪留めをちらっと見た。
「あ、色ちょい濁った。妬いた?」
「見るな!」
「見えたんだって。凝視してないしー」
「今のは凝視寄り!」
「寄りって何? ウケる」
かなめの灯りが、ほんの少しだけ重くなる。
私はそれを見て”ああ、怒ってるんだな”と思った。
かなめはいつも分かりやすい。
るなは楽しそうに笑っている。
その後ろで、奏が少し引いた顔をしていた。
「……お前ら朝から何してんの。元気すぎて怖いんだけど」
「お兄ちゃん! 助けて! るなが私を煽る!」
「るな、かなめを朝から刺激すんな。こいつ一日中うるさくなる」
「え、もううるさいじゃん」
「それはそう」
「お兄ちゃん!?」
かなめの声がさらに跳ねた。
奏は耳をふさいだ。
「ほら、これだよ」
るなはけらけら笑っている。
その隣にいた一年生の男子が、少し困ったように息を吐いた。
入間玲央。
るなの弟。
「姉さん、朝から先輩をからかわない」
「からかってないし。仲良くしてるだけだし」
「その仲良くするやつで、かなめ先輩の色が毎回濁ってる」
「反応いいからつい」
「ついでやらない」
「玲央、ママみたい」
「弟です」
玲央は真面目な顔で言った。
るなはまた笑った。
私はその横を通り過ぎようとしたけれど、るなに呼び止められた。
「灯里も春、出るっしょ?」
「まだ申請してない」
「出るじゃん」
「なんでみんなそう言うの」
「だって灯里だし」
「理由になってない」
「なってるって。ね、奏」
奏があくびをしながら頷いた。
「出るだろ、灯里は」
「勝手に決めないで」
「はいはい、出ない出ない」
「その言い方、絶対思ってないでしょ」
「思ってない」
「認めないで」
朝から騒がしい。
でも、これがたぶん普通なのだと思う。
私の周りの普通は、少しうるさい。
校舎に入って、二年四組へ向かった。
新しい教室の扉を開ける。
その瞬間、なぜか少しだけ教室がざわついた。
……何。
リボン?
髪?
それとも、袖から手首の石が変に出てる?
反射的に左手首を押さえると、隣から奏が吹き出した。
「違う違う」
「何が」
「今、手首確認しただろ」
「してない」
「してた。灯里、分かりやす」
「うるさい」
私が自分の席を探していると、廊下側の席にいた男子がぱっと顔を上げた。
「お、朝霞さん来た。二年四組、なんか強そうになったな!」
「……何が?」
「いや、雰囲気? ほら、前回のあれあるじゃん」
「あれ?」
「え、そこ聞き返す?」
男子は困ったように笑った。
何か言い方が悪かったのかもしれない。
私が首を傾げていると、窓側の席にいた女子が、小さく手を上げた。
「あの、朝霞さん。席、ここ」
「え?」
「隣。たぶん」
見ると、私の席はその女子の隣だった。
大人しそうな子だった。
声も小さいし、姿勢も綺麗で、騒がしい教室の中で一人だけ少し温度が低い。
「ありがとう」
「うん」
女子は頷いて、少しだけ目を伏せた。
私は席に鞄を置く。
すると、さっきの男子がこちらを見て笑った。
「朝霞さん、リボン大丈夫だよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
「言ってない」
隣の女子が、控えめに付け足した。
「リボンは、曲がってないと思う」
「……ありがとう」
「うん」
なぜか少し安心した。
でも、そもそも何でそんなに見られていたのかは分からない。
「なんで見られたんだろ」
「お前が朝霞灯里だからじゃね?」
奏が頬杖をつきながら言った。
「何それ」
「いや、去年二位だろ」
「一位じゃないけど」
「そういう話じゃねーんだよな」
奏は面倒そうに笑った。
「お前、自分が思ってるより見られてるぞ」
「怖いこと言わないで」
「怖いじゃなくて、評価されてるって話」
「評価される要素ない」
「前回二位の人間が言う台詞じゃねーよ」
「一位じゃない」
「そこなんだよなー」
私は少しむっとした。
だ《・》って、二位は二位だ。
一位じゃない。
勝てなかった。
それは別に、褒められるようなことではないと思う。
「灯里、顔怖いけど噛まねーから。たぶん」
奏が近くの男子に向かって、急にそんなことを言った。
「奏」
「たぶん噛まない」
「噛まない」
「ほら」
「朝霞さん、噛まない系なんだ」
ムードメーカーの男子が、勝手に納得したように頷いた。
「系って何」
「分類?」
「しないで」
周りから少し笑いが起きた。
さっきまでの変な視線が、少しだけ薄くなる。
奏は本当にテキトーだ。
でも、たまに助かる。
……たまにだけ。
始業のチャイムが鳴ると、前の扉が開いた。
入ってきたのは、長い髪をゆるくまとめた女性教師だった。
ゆっくり歩いて教卓に立つと、チョークを一本手に取った。
「はいはい、おはようございまーす。二年四組の担任になった秩父瑠璃です。秩父先生でも、瑠璃ちゃんせんせーでも、まあ呼びやすい方でどうぞ」
「じゃあ瑠璃ちゃんせんせーで!」
さっきのムードメーカー男子が、さっそく手を挙げた。
教室がどっと笑う。
瑠璃先生は眠そうな顔でその男子を見た。
「初日から距離感がバグってますね。嫌いじゃないです」
「褒められた!」
「褒めたかどうかは自分で考えてください」
また笑いが起きる。
「ただし、瑠璃ちゃんせんせーって呼んでも成績は上がりません。下がりもしません。たぶん」
「たぶんなんだ」
「たぶんです。人間、呼び方ひとつで調子が変わることもありますからね」
言い方はかなりテキトーだ。
でも、嫌な感じはしない。
「一年間、ほどほどによろしく。頑張る子は見ます。頑張りすぎる子は止めます。頑張らない子は起こします。めんどくさい子は、まあ、めんどくさいまま扱います」
瑠璃先生は教室を見渡した。
その視線が、一瞬、私のところで止まった。
「特に朝霞さんみたいな、自分は普通ですけど、みたいな顔をして普通じゃないことをするタイプは止めます」
「……私ですか」
「朝霞さんです」
「まだ何もしてません」
「する前に言ってます」
教室の何人かが笑った。
私は少しだけむっとした。
隣の女子が、小さく口元を押さえている。
「笑った?」
「少し」
「そこは否定して」
「ごめん」
瑠璃先生はその女子にも視線を向けた。
「隣のあなた、朝霞さんが変な方向に燃えそうになったら教えてください」
「えっ、私ですか」
「席が隣なので」
「理由が雑です」
「担任なので、雑に人を頼ります」
女子は困ったように瞬きをしてから、私をちらっと見た。
「……できる範囲で」
「引き受けないで」
「断り方が分からなくて」
「分かって」
瑠璃先生は満足そうに頷いた。
「はい、二年四組、初日から役割が決まってきましたね。いい感じです」
何もよくない。
でも、教室の空気は明るかった。
少しだけ、悪くないと思ってしまった。
「それと、春大会のテーマが発表されました」
その一言で、教室の空気が少し変わった。
瑠璃先生が黒板に白いチョークで書く。
春大会テーマ。
――雪解け。
雪。
それだけで、胸の奥が少しだけざらついた。
去年の冬。
白いステージ。
白岡澪嶺の、氷青と銀白。
あれは綺麗だった。
腹が立つくらい。
私はすぐに視線を黒板から外した。
別に思い出したくなかったわけじゃない。
思い出したところで、何かが変わるわけでもないから。
「雪解けかー」
奏が隣でぼそっと言った。
「春っぽいな」
「春大会だからでしょ」
「灯里、雪、燃やしそう」
「燃やさない」
「溶かす?」
「……普通、そうじゃないの」
「まあ普通はそうかもな」
奏はまたテキトーに頷いた。
私は黒板を見る。
雪解け。
雪を溶かす。
凍ったものを、熱でほどく。
そう考えると、私の色は向いている気もする。
でも、向いていると思った瞬間、少しだけ嫌になる。
私がそんなに都合よく、何かを溶かせる人間だとは思えない。
たぶん、私は燃やしすぎる。
溶かすというより、焦がす。
そんな気がする。
「灯里」
奏が呼んだ。
「何」
「顔が自分を悪く言い始めてる」
「顔で分かるわけないでしょ」
「分かるんだよな。長い付き合いだから」
「じゃあ見ないで」
「はいはい」
奏はそこで話をやめた。
そういうところが、少しだけ上手い。
ホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなった。
春大会の話。
クラス替えの話。
放課後の申請枠の話。
新作アクセの話。
隣の女子は、机の端に置いた小さなメモ帳に何かを書いていた。
私は少し気になったけれど、じっと見るのもよくない気がして、鞄の中を整理するふりをした。
その時、七組の方から聞き慣れた大声がした。
「灯里ちゃーーん!」
かなめだった。
廊下の端からでも分かるくらい、かなめだった。
「声量」
「灯里ちゃん!春大会!テーマ!雪解け!聞いた!?」
「聞いた」
「澪嶺さんも出るって!七組ざわついた!澪嶺さん、今日も静かだった!すごい!美人!でも近寄りがたい!」
「最後、本人に言わないでね」
「言わないよ!たぶん!」
「不安」
かなめはにこにこしている。
澪嶺さん。
かなめは白岡のことを、そう呼ぶ。
周りはだいたい「白岡さん」なのに。私は「白岡」と呼ぶ。
別に理由はない。
さん付けするタイミングを逃しただけだと思う。
「灯里ちゃん、今年も出るんでしょ?」
「まだ申請してない」
「みんなそう言うけど出るやつ!」
「みんなって誰」
「お兄ちゃんと、るなと、私!」
「全員うるさい側じゃん」
「ひどい!」
かなめは元気に傷ついた顔をした。
その横で、奏が廊下の壁にもたれていた。
「かなめ、声でけーって。七組まで帰れ」
「お兄ちゃんが冷たい!」
「通常運転だろ」
「通常で冷たいのが問題!」
「はいはい」
「雑!」
「雑に扱っても壊れないからな、お前」
「壊れるよ!? 繊細だよ!?」
「どこが」
「全部!」
奏は本気で少し引いた顔をした。
「自信すげーな」
かなめは胸を張った。
私はそのやり取りを見て、少しだけ笑いそうになった。
笑ってない。
たぶん。
放課後、私は職員室前の掲示板へ向かった。
春大会の申請案内が貼られていた。
テーマ、雪解け。
参加受付。
点検日。
放課後枠。
ステージ使用希望。
見慣れた文字を追っていると、左手首の石が少しだけ熱を持った。
袖の下に隠れているはずなのに、存在が妙にはっきりする。
出る。
そう思った。
勝てるかどうかは分からない。
でも、出ないのは違う。
去年度負けたから。
悔しいから。
白岡に、勝ちたいから。
理由はそれだけ。
それだけで十分。
「朝霞さん」
声がした。
私は、足を止めた。
その声を聞いただけで、背筋が少し伸びる。
廊下の窓から、桜色の光が差していた。
その中に、白岡澪嶺が立っている。
耳元の石には、氷青と銀白が重なるように灯っていた。
春の光の中なのに、その色だけは少し冷たい。
白岡は、いつも通り静かだった。
整っていて、近寄りがたい。
でも、ただ冷たいだけではない。
たぶん。
そう思った理由は、自分でもよく分からなかった。
「……白岡」
私は普通に呼んだつもりだった。
でも、自分の声が少し固かった気がする。
たぶん、負けた相手だからだ。
それ以外に理由はない。
白岡は、私の左手首のあたりを一瞬だけ見た。
気がした。
気のせいかもしれない。
私は袖を少しだけ押さえる。
白岡は静かに言った。
「朝霞さん」
桜色の廊下で、その声はやけに涼しく聞こえた。
「今回も、彩炎に出るの?」




