第四話 弥助、燃ゆ
七日目の夜、大祭まで、あと五日。
絵図の赤丸は、玉屋の元・看板跡地。かつて母が店を構えていた、私の生まれた場所。
「……偶然か?」
「いいえ」
宗右衛門が、首を振った。
「妖火は、縁のある土地に呼ばれます。今宵、そこに出るということは、既に〈親玉〉の意識が、お嬢様を捉えている、ということです」
「あたしを?」
「花火師の血を、妖火は憎みます。憎んで、飢えて、引き寄せられる」
私は、桐箱の蓋を開けた。残り、六発。うち一発は、「遺」。
番号「七」の玉を取り出す。今夜の玉は、菊花万朶――母が遺した中で、最も大きく、最も広く咲く一発。
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看板跡地は、空き地になっていた。
十二年前に幕府が焼き払って以来、誰も立てようとしない土地。雑草が腰まで伸び、井戸の跡だけが黒い口を開けている。夏の夜風が、草を揺らしていた。
私と宗右衛門が打揚筒を立てていると、草むらの向こうで、足音がした。
「――佐江ちゃん?」
心臓が、止まりかけた。振り返ると、弥助が立っていた。魚屋の前掛けのまま、提灯を持って。
「弥助、あんた、なんで」
「いや、俺、最近、佐江ちゃんが夜にこのあたりをうろついてるって聞いて……」
「帰れ」
「え?」
「いいから帰れ! 今すぐ!」
私が叫んだのと、草むらが一斉に青く光ったのと、同時だった。
妖火。今夜は、五十。しかも、他の夜と違う。動きが、速い。
一匹が、弥助の足元に走り寄った。弥助が、気づかぬまま、そちらを見た。
「なんだ、あの青いの――」
「弥助、動くな!」
私は駆け出した。弥助の前に、私の体が間に合うかどうか。
間に合わなかった。妖火が、弥助の脚に絡みついた。提灯が落ちた。
「あつっ、なんだこれ、熱……!」
弥助が膝をついた。脚から、白い煙。普通の火と違い、妖火に灼かれた者は、内側から燃える。今すぐ祓わねば、半刻で心ノ腑まで達する。
「爺!筒!」
宗右衛門が、打揚筒を支える。私は番号「七」の玉を筒に込めた。菊花万朶。広く咲く、母最大の配合。
火縄に火。玉、打ち出す。
ひゅうう――ぱっ。
夜空に、金の菊。直径、十丈。花弁は二百、一枚ずつが地上を照らす。
弥助の脚に絡んでいた妖火が、金の花弁に吸い上げられる。弥助が息を吹き返し、倒れこんだ。しかし、他の妖火は、散っていない。
四十九匹。菊花万朶の光の届かぬ、草むらの影から、一斉に湧き出してくる。私たちの方へ。
「……数が、多すぎる」
宗右衛門が、低く言った。
「菊花万朶を、もう一発」
「残っていない」
「では――」
老人が、言いかけて、口をつぐんだ。私は、桐箱の中の「遺」の玉に、手を伸ばしていた。
「お嬢様!」
宗右衛門の声が、鋭く飛んだ。私の手首を、老人が掴んだ。
「それは、なりませぬ」
「爺、離せ」
「それは、なりませぬ」
「弥助が死ぬ! あんたも死ぬ! あたしも死ぬ! 今使わなきゃ、全員――」
「お嬢様!!」
宗右衛門が、初めて、声を荒げた。
「その玉は、お母上が、大祭の夜のために遺された玉です。今、ここで使えば――親玉を、封じる手立てが、なくなります」
「……」
「お母上は、この日のために十二発を仕込んだ。一発も、余分ではございません。一発も、欠けてはならぬのです」
私は、「遺」の玉を握ったまま、動けなかった。
草むらから、妖火が近づいてくる。弥助が、朦朧とした意識で、こちらを見ていた。宗右衛門の手が、私の手首を、震えながら押さえていた。
――「遺」を使えば、全員が今、助かる。「遺」を使わなければ、大祭の夜、この江戸の町が火の海になる。
どちらも、選べない。選べないのに、選ばねばならない。
私は、「遺」を桐箱に戻した。代わりに、番号「八」の小さな玉を取り出した。三寸にも満たない、一番小さな試作玉。母が娘に、腕試しのために作った、菊の雛型。
「爺、手伝え」
「お嬢様、それでは数が」
「足りない分は、あたしが走る」
筒に玉を込め、火縄を点ける。玉、打ち出す。
ひゅう――ぱっ。
小さな、けれど鋭い、紅の菊。花弁は三十。菊花万朶に比べれば、淡い光。
私は駆け出していた。紅の花弁が地上に落ちる前に、妖火の群れの中へ、自分の体ごと飛び込んでいった。
花弁が一枚落ちるごとに、妖火が一匹消える。足りない。私は草むらの中を走り、花弁と妖火が出会う場所に、自分の足で導いていった。
花弁、三十。妖火、四十九。
最後の妖火が、私の袖を灼いた。祓うのに、間に合わなかった。
私の左腕が、じゅ、と音を立てた。
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気がつくと、私は空き地に倒れていた。左腕に、宗右衛門が水を打っていた。弥助が、焦った顔で私を覗き込んでいた。
「佐江ちゃん、大丈夫か、佐江ちゃん!」
「……弥助、あんた、何か見たか」
「え?」
「花火の、ほかに」
「……いや、花火だけだよ。すげえ花火だった。佐江ちゃん、あれ、誰が――」
「覚えてなくていい」
私は、左腕を押さえて起き上がった。火傷は浅い。動く。桐箱の中を見た。残り、四発。うち一発は、「遺」。
宗右衛門が、静かに言った。
「お嬢様。親玉は、菊花万朶でも、封じられません。菊花万朶は、光を広げる玉です。親玉を封じるには、光を集め、一点に打ち込む玉が必要です」
「……そんな玉、残ってないだろう」
「残っております」
「え?」
「『遺』の玉が、それでございます」
私は、桐箱を見下ろした。朱で「遺」と書かれた、三寸の玉。母が、私のために、仕込んだ一発。
「爺。あれは、ただの玉じゃないな」
「はい」
「母さんは、何を仕込んだんだ」
宗右衛門は、私の顔を見た。老人の目に、初めて、涙のようなものが、光った。
「お母上は――ご自分の命を、あの玉に仕込まれました」
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遠く、両国の土手で、夕涼みの客の一人が、夜空を見上げて、つぶやいていた。
「……なあ、今夜の花火、見たか。あの小さい紅の菊。なんか、妙に、人の心に残る玉だったなあ」




