第五話 宵闇に咲くは、此の一発
大祭の夜が、来た。
神田明神の境内は、人で埋まっていた。提灯の灯りが参道に連なり、太鼓の音が夜気を震わせる。子供が親の手を引き、娘が振袖の裾を気にして歩く。賑わいの中心で、神輿が高く担ぎ上げられていた。
誰も、知らない。この祭りの夜、この町が、火の海になるかもしれぬことを。
私は、境内の裏手の小高い丘に、打揚筒を立てていた。桐箱の中は、残り四発。
番号「九」、「十」、「十一」。そして――「遺」。
•
「お嬢様」
宗右衛門が、並んで筒を支えていた。昨日より、老人の背中が、少し小さく見えた。
「お母上は、お嬢様が十五の春に、『遺』の玉を仕込まれました」
「十五?」
「はい。お母上は、ご自分の寿命を、知っておられました」
宗右衛門の声は、静かだった。
「胸を病んでおられた。あと数年、と医者に告げられた夜、お母上は蔵に籠もり、三月かけて、あの一発を作られました。ご自分の血を、配合に混ぜて」
「……」
「『遺』の玉は、二段変化。外殻は、お母上の菊。そして内殻に、お嬢様が仕上げるべき、未完成の玉が仕込まれております」
「未完成?」
「はい。中の玉皮は、まだ朱の文字が入っておりませぬ。お嬢様が、打つ前に、ご自分の文字を入れてください。それが――継承、でございます」
私は、桐箱から「遺」の玉を取り出した。三寸の玉皮。朱で書かれた「遺」の一文字。その下に、母の手で、小さく細工された継ぎ目があった。
•
境内の空気が、変わった。
太鼓の音が、一拍、外れた。提灯の火が、一斉に揺れた。
参道の真ん中で、神輿が、止まっていた。担ぎ手たちが、呆然と空を見上げていた。
空から、降りてきていた。青白い、巨大な火の塊。一間四方はある、人の顔の形をした火の塊。――親玉。
境内にいた人々が、はじめて、その存在に気づいた。悲鳴が上がった。子供が泣き出した。振袖の娘が転んだ。
「お嬢様」
宗右衛門が、打揚筒を固定した。
「番号九と十は、私が打ちます。お嬢様は、十一と『遺』を」
「爺、あんた、打てるのか」
「手が震えておりますが、打てます」
宗右衛門の手は、確かに震えていた。七十に届こうという老人が、初めて、この手で打揚筒を握っていた。
私は、「遺」を胸に抱えた。そして、小刀を出した。
母の残した玉皮の、空白の箇所に、朱墨で、私は、一文字を書いた。
――継。
•
親玉が、境内に降りてきた。神輿の担ぎ手が、火に巻かれかけた。
「爺、番号九!」
「承知!」
宗右衛門が玉を込め、筒を放った。ひゅうう――ぱっ。
夜空に、青の牡丹。老人の玉は、小ぶりだが、芯が強い。親玉の一部が吸い込まれ、わずかに引き剥がされた。
親玉が、空を仰いだ。怒りで、火の塊が膨らんだ。
「番号十!」
「承知!」
ひゅうう――ぱっ。
金の菊。親玉の片腕が、光の花弁に削られ、消えた。しかし親玉は、まだ大きい。まだ、境内を飲み込むに足る。
私は、番号「十一」を筒に込めた。
「打ちます!」
ひゅうう――ぱっ。
紅の柳。光の細い枝が、夜空いっぱいに垂れ下がる。柳の枝が、親玉の体を縛った。束の間、親玉の動きが、止まった。
――今。
私は、「遺」の玉を取り出した。母の菊と、私の継ぎ目。指先が、わずかに震えた。宗右衛門の手が、私の手に重なった。
「お嬢様。お母上は、ずっと、お嬢様をお見守りでした」
「……爺」
「お二人で、打ってください」
私は、うなずいた。
「遺」を、筒に込める。火縄に、火を点ける。
「玉屋――佐江。継承の一発、打ち上げます」
ひゅうう――。
夜空へ、玉が昇っていった。親玉の、真上まで。
そして――
•
ぱっ。
夜空に、白の菊が咲いた。母の、菊。純白の花弁が八重に広がり、境内中を白く染めた。白は、花火の中でも最も作るのが難しい色。母が生涯をかけて極めた、一つの到達点。
白の菊の花弁が、地上に届く前に――
ぱっ、ぱっ、ぱっ。
花弁の一枚一枚の中から、今度は紅の小さな菊が、次々と咲いた。娘の、菊。母の白の中から、私の紅が、二百、三百、五百と連鎖して咲いていく。
二段変化。母が打ち、娘が継ぐ、一つの花火。
親玉が、天を仰いだ。母の白が、親玉の体を包み込み、私の紅が、その内側を焼き尽くした。青白い巨体が、光の花弁に溶かされ、一片の火花も残さず、消えていった。
夜空いっぱいに広がった、白と紅の、二重の菊。境内の人々は、誰もが、空を見上げていた。泣き出す者がいた。手を合わせる者がいた。手を叩く者がいた。
「――ありゃあ」
「見たことねえ花火だ」
「白から、紅が咲きやがった」
「玉屋だ。玉屋が、戻ってきたんだ!」
誰かが、叫んでいた。誰かが、答えていた。太鼓が、また鳴り始めた。祭りが、続いていた。
•
丘の上で、私は、打揚筒を下ろした。
桐箱は、空になっていた。宗右衛門が、荒い息で、筒に寄りかかっていた。老人の目に、涙が伝っていた。
「……お嬢様。お見事でございました」
「爺。あたし、母さんと、打ったな」
「はい」
「打てたな」
「はい。お二人で、打たれました」
私は、夜空を見上げた。白と紅の残像が、まだそこにあった。母の光は、消えてはいなかった。私の中に、宗右衛門の中に、そして、空を見上げた町人たちの胸の中に、確かに、残っていた。
•
数日後、玉屋の看板が、店先に戻った。
新しい桐箱に、私は、自分で作った一発目を納めた。玉皮に、朱で、一文字。
――始。
土間では、宗右衛門が、米を研いでいた。
「爺、飯は自分で炊くって言ってるだろ」
「お嬢様の炊いた飯は、芯が残ります」
「だから、練習するんだよ」
「承知いたしました。では、今宵から、お嬢様の番ということで」
「いや、今宵は爺が……」
「芯が残らぬよう、ゆめゆめ」
「……爺、あんた、意外と意地悪いな」
宗右衛門が、笑った。
玉屋の看板の下を、弥助が、魚の籠を担いで通りかかった。私に気づいて、手を上げた。
「佐江ちゃん、看板、戻したのかい」
「うん」
「玉屋の娘、か。――似合うじゃねえか」
弥助の声が、少し照れていた。私は、何も言わず、手を振った。
夕暮れの空が、赤く染まり始めていた。その空を見上げて、私は、小さく呟いた。
「――母さん、あたし、花火師やるよ」
蔵の中で、新しい桐箱が、こつり、と鳴ったような気がした。
――この玉屋の灯が、この先、どれだけの夜をこえて、誰の手に渡ってゆくのか。その時の私は、まだ、知らなかった。




