第三話 水中花
三日目の夜は、雨だった。
昼過ぎから降り出した雨が、夕刻には本降りになった。土間に座った宗右衛門が、軒先の雨脚を見上げて、低くうなる。
「……厄介ですな」
「花火、上げられるのか。こんな雨で」
「火縄が点きませぬ」
私は、絵図を広げた。今夜の赤丸は、不忍池。池の畔の茶屋が立ち並ぶ一帯に、妖火が出る予兆。
「爺。雨の夜の打揚法は、配合帳のどこだ」
「――ございません」
「は?」
「先代も先々代も、雨の夜には玉を打ちませんでした。打てませんでしたので」
「じゃあ、どうしてたんだ」
「祈っておりました。今宵、妖火が出ませぬように、と」
私は、天井を仰いだ。
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「宗右衛門」
私は、配合帳を閉じた。
「火縄が使えないなら、別の火種でいい。火打ち石は」
「雨中では火花が散りませぬ」
「種火は」
「運ぶ間に消えます」
八方ふさがり。私は桐箱の蓋を開け、番号「三」の玉を取り出した。三寸の玉皮に、朱の文字。水物の特殊配合――先代が編み出した、水面で二重に咲く玉。
本来なら、これは晴れた夜の池で使う玉だった。
「……爺、油はあるか」
「油、と申しますと」
「菜種油。たっぷり」
「蔵に二斗ほど」
「持ってきてくれ」
宗右衛門が首をかしげながら、蔵へ向かった。私は、土間の隅にあった古い提灯を手に取った。紙の張り替えもしていない、骨ばかりの提灯。
――母が、一度だけ教えてくれた話がある。
雨の夜、どうしても花火を上げねばならぬ時は、筒の中に油紙を仕込む。火縄の代わりに、油を染ませた紙に燧で火を移し、それで玉を打ち上げる。ただし、一度しか使えない。紙は湿気を吸い、二発目は必ず不発になる。
一夜、一発。ちょうどいい。
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不忍池の畔は、雨に煙っていた。
茶屋の軒先では、客が雨宿りをしている。酒の匂いと、三味線の音が、雨音に混じって流れてくる。池の水面は、夜目にも暗く、波紋が絶え間なく広がっていた。
その暗い水面の下に、青白い光が、ぽつり、ぽつり、と灯りはじめた。
妖火。水中から湧いてくる、たちの悪い型。放置すれば、池の水を伝って、茶屋の床下にまで這い上がってくる。
「お嬢様、油紙は」
「仕込んだ」
私は、打揚筒を池の畔に立てた。番号「三」の玉を込める。油を染ませた紙を、筒の底に敷く。燧鉄と燧石を、油紙の上に構える。
一発で、火を移さねばならない。
かち。かち。かち。
三度、燧を打った。火花は散るが、紙に移らない。雨粒が、筒の中にまで入り込んでいる。
「……まずい」
手が、震えはじめた。
池の妖火は、もう茶屋の床下に迫っていた。客の足元で、床板が、じわりと焦げ始めている。誰も気づいていない。
四度目。かち。
移らない。
「お嬢様」
宗右衛門が、私の横に屈み込んだ。
「こうお構えなさい。燧石の角を、もう少し立てて。――指先ではなく、手首で打つのです」
老人の手が、私の手に重なった。細くて、でも節の張った、職人の手。その手の感触に、私は一瞬、母の手を思い出した。
五度目。
かち、と乾いた音がして、油紙に火が移った。
炎が筒の底を走り、玉の導火に到達する。ひゅう、と玉が、雨空へ昇っていった。
――ぱっ。
雨雲の下、青の牡丹が咲いた。そして池の水面に、もう一つの青が開いた。
水面の青が、さらに分裂した。
波紋のように、二つ、四つ、八つ、と青の花が池いっぱいに広がっていく。水中花。母の配合の真骨頂。一発の玉が、水面の反射を使って百輪の花に化ける。
茶屋の床下で、青白い妖火たちが、ひとつ残らず、上を向いた。そして水面の青へと、吸い込まれていった。
客たちが、軒先から身を乗り出した。
「おおお、こんな雨の夜に」
「粋な花火屋もいたもんだ」
「どこぞの大尽が、貸し切ったのかねえ」
三味線の音が、止んでいた。代わりに、客たちの拍手が、雨音の中に重なった。
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蔵に戻ったとき、宗右衛門が、火鉢の前で手をかざしていた。濡れた着物から湯気が立っていた。
「……爺」
「はい」
「幕府は、なんで玉屋を潰したんだ」
老人は、すぐには答えなかった。やがて、火鉢の炭を一本、足した。
「花火師の光は、人の心を開きます」
「……心を」
「夜空に咲く紋様を見た者は、その色と形に、知らず心を動かされます。穏やかな菊を見れば穏やかになり、激しい牡丹を見れば血が騒ぐ。花火師は、その力をもって妖火を祓い、民の心を慰めてまいりました」
「それが、何で潰される理由に」
「百年前のことでございます。ある花火師が、その力を政に用いました。夜空に紋様を連ねて、民の心を煽り、ある大名を持ち上げ、ある大名を引きずり下ろした。――たった一月で、江戸の政は、ひっくり返りました」
「……花火で、政を動かしたのか」
「光は、刀より速く、鉄砲より広く届きます。幕府がそれに気づいて、花火師を恐れたのは、当然のことでございました」
宗右衛門の声は、淡々としていた。けれど、その淡々さが、逆に重かった。
「代々の玉屋は、その事件以来、己の技を決して政に近づけぬと誓いました。妖火を祓う。民の心を慰める。それ以外には、決して光を用いない。――お母上も、その誓いを、お守りでした」
私は、桐箱を見下ろした。残り、九発。
「爺。あたしの母さんは、なんで十二発、遺したんだ」
「さあて」
「知ってるだろ」
「……お嬢様」
宗右衛門は、火鉢の炭を見つめたまま、言った。
「お母上は、おっしゃいました。『娘が打つときは、娘のために打たせたい』と。だから十二発のうち、一発を――」
「一発を?」
老人は、口を閉ざした。
私は、桐箱の中の「遺」の玉を、じっと見た。玉皮の朱が、火鉢の光で、血の色に見えた。




