雨
夜の静寂を切り裂くようにして、男は麓の街へ下り、リミを抱えたまま、明かりの灯る総合病院へと滑り込んだ。
異様な風体の男と、血塗れの娘。騒然とする受付で、男は掠れた声で叫んだ。
「すぐに……手術を……!」
駆けつけた医療スタッフの手によって、リミは即座にストレッチャーへと移され、重々しい手術室の扉の向こうへと運ばれていった。
手術室の前。
そこからは、時間だけが異様に長く、冷酷に流れていた。
男は普段、薄暗い小屋の中で何時間でも、何日でも、微動だにせず木を彫り続けられる人間だった。どれほど長い静寂にも耐えられるはずだった。
それなのに、この待合室の時間は、骨の髄がきしむほどに耐え難い。
今の自分には、ただここで待つこと以外、何ひとつ許されていなかった。
どれほどの時間が経ったのか、時間の感覚すら忘れた頃。不意に手術室の頭上の灯りが消え、中から疲弊した面持ちの医師が姿を現した。
廊下の椅子でずっと石のように固まっていた男が、弾かれたように腰を上げた。
「あなたが、彼女をここまで運んできたのですか」
問いかけに、男は何も答えなかった。乾いた唇を硬く結んだまま、医師の顔を凝視している。
応答のない男の様子を訝しがりながらも、医師は優しく言葉を続けた。
「手術は、無事に成功しました。峠は超えました。あとは……彼女次第です」
男は黙ってそれを聞いていた。
いや、その言葉が男の鼓膜に届いていたのかすら分からない。
「それから、」
医師は男の泥と血に汚れた手元に視線を落とし、感嘆の息を漏らした。
「……あそこまでの応急処置は、あなたが?決して完璧な医療行為とは言えませんが、あの状況でできる限りの的確な止血がされていました。間違いなく、あれが無ければ彼女は病院に着く前に失血死していたでしょう。あなたが彼女の命を繋いだんですよ」
男は何も言わなかった。
医師に頭を下げることも、リミの顔をひと目見たいと乞うこともなく、ただ静かに翻った。
静かに病院の自動ドアを抜け、まだ薄暗い夜明け前の街へと、影のように姿を消した。
夜明け前、男は静かに山小屋へと戻った。
玄関先には、ここまで無様に這いずった跡を残し、力尽きているあの男の姿があった。
投げ飛ばした際、どこかの骨をへし折ったのだろう。辛うじて息はあるが、身動き一つ満足にできていない。
このまま放置すれば、いずれまたリミの命を狙うだろう。
どうするべきか。こいつもまた、あの暗がりに並ぶ亡霊の一人に加えるべきか──。
男は身動きの取れない男と、その凶器であった歪な斧を引きずり、また山を下りた。
向かったのは、まだ眠りの中にある街の警察署だ。
血の付いた斧と共に、男を身動きが取れないよう署の前に縛り付け、影のようにその場を去った。
朝になれば、嫌でも警察が気づく。
襟元を掴まれ凄まれただけで、雇い主の素性をやすやすと白状した男だ。
こいつに殺し屋としての誇りなど欠片もない。警察に詰め寄られれば、すべてを吐き出すだろう。
──罪を償って、せいぜい楽になるといい。
男は、また静かに山小屋へと戻った。
疲れ果てた身体のまま、男はナイフを握り直した。そして、再び木を彫り始めた。
己が奪ってきた過去の命へ向けるための怨念ではない。今まさに、あの白い部屋で必死に生きようとしている、ひとつの尊い命への祈りを込めて。
終わらせてはならない。消してはならない。男はただ一心不乱に、狂ったように刃を動かし続けた。
空腹を忘れ、眠気を忘れ、指先から滴る自らの血が木肌に染み込んでいくことさえ気づかないほどに、男は彫り続けた。
朝の光が部屋を白く染める頃、それは完成した。
男はその彫刻を抱え、再び病院へと向かった。
リミが眠る病室の、すぐ隣の窓辺に、そっとそれを受け皿のように置く。
だが、男は一瞬たりとも、ベッドで眠るリミに視線を向けることはなかった。
小屋へ戻ると、男は床下に深い穴を掘った。
これまで彫り上げてきた無数の仏像を、ひとつずつ静かにそこへ並べていった。
そして男は、小屋に火を放った。
亡霊たちとの約束を果たすために。
パチパチと音を立てて崩れ落ちていく、すべてを。
ただせめて、その火が消え果てる瞬間まではと、男は猛火の前で静かに、深く両手を合わせ続けた。
だが、しばらくすると、空から音もなく静かな雨が降り出してきた。
雨は男を突き放すように、激しく燃え盛る炎を容赦なく包み込み、やがて冷たい灰へと消し去った。
──わかっている、その時間すら許されてはいない。
立ち上る水蒸気のなか、男はようやく、合わせた手を下ろして立ち上がった。
男は振り返ることもなく、雨の降る深い山奥へと、静かに去っていった。




