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そして殺し屋は彫り師になる  作者: Aです


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6/8

同業者

木漏れ日が優しく揺れる、穏やかな昼下がりにリミは目を覚ました。


いつもなら鼓膜を叩いているはずの、あの木を削る音が聞こえない。

視線を向けると、珍しいことに男が壁に背を預けたまま、深く目を瞑って眠りに落ちていた。

──この人にも、ちゃんと『眠る』という人間の営みがあるんだ。

張り詰めた糸が切れたような男の寝顔を見て、リミはどこかほっと息をついた。


脚の傷はもう、ずいぶん良くなっている。これまでは怖くて試してこなかったが、今の感覚なら少しくらいは歩けそうだった。

布団からそっと脚を抜き、床に体重をかけてみる。……うん、鈍い痛みはあるけれど、確かに歩ける。


リミは男を起こさないよう、息を潜めて静かに部屋の奥へと歩き出した。

目指したのは、これまでずっと遠目でしか眺めることのできなかった、無数の彫刻の群れだ。


初めて間近で見る、男の作品。

遠目には、どれも慈悲深い、穏やかな顔をした見慣れた仏の姿に見えていた。


だが、窓から差し込む斜光がその木肌に陰影を落とした瞬間、リミは息を呑んだ。


穏やかに結ばれているはずの口元が、光の加減で、何かを必死に堪えるような激しい憤りに見えてくる。伏せられた瞼の奥からは、言葉にならない深い悲哀がじわりと滲み出している。


仏の姿を借りて彫り込まれた、剥き出しの人間たちの怒哀。

その静かな、けれど圧倒的な情念に引き込まれるようにして、リミは無意識のうちに、その中の一体の顔へと指先を伸ばしていた。


──ガシッ、と。


突如として、鉄の万力で締め付けられたかのような衝撃がリミの手首を襲った。

「っ……!?」


驚愕して視線を落とすと、そこにはさっきまで眠っていたはずの、男の細い腕があった。

いつ起きたのか。いつの間に、音もなくここまで近づかれたのか。頭の芯まで凍りついたように、身動きさえ取れなくなる。

男の双眸は、これまで見たこともないほどに見開かれ、暗黒の奥底で鋭い光をぎらつかせていた。

痩せこけ、か細く見えたその腕のどこに、骨がきしむほどの強靭な力が隠されていたのか。


恐怖で一瞬忘れていた手首の痛みが、遅れて脳を突き刺す。

「い、いたい……っ!」


リミの悲鳴が狭い小屋に響いた。

その声で、男は弾かれたように我に返った。何かに憑りつかれていたような瞳に光が戻り、すぐさまリミの手首から手を放す。


「あ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


リミは恐怖に身を震わせながら、縋るように布団へと引き返し、潜り込むことしかできなかった。心臓がただ破裂しそうだった。


男はしばらくの間、自分の掌を見つめて立ち尽くしていたが、やがて何も言わずにいつもの定位置へと戻っていった。


カッ……。カッ……。


再び響き始めた木を彫る音。

だが、その日の音は、これまでリミが聞いてきたどんな音よりも、冷たく、頑なで、鋭く小屋の空気を切り裂いていた。




その夜、男は一人で夜の山へ入った。

リミの脚はもうすぐ完治する。彼女が自分の元を去り、元の世界へ帰る時に決して道に迷わないように。

獣の出ない安全なルートを選び、男は一本ずつ、静かに木杭を打ち込んでいった。

毎日、仏像を彫る傍らで、彼女のためだけに削り続けてきた道標だ。


麓の舗装された道路が見える境界まで杭を打ち終え、男は静かに小屋への帰路についた。

──だが突然、胸を鋭く突くような、おぞましい胸騒ぎがした。


理由も分からないまま、男の身体は全力で疾走していた。

小屋へ近づいた瞬間、男の目に最悪の異変が飛び込んでくる。

リミが眠っているはずの暗い木小屋に、不自然な明かりが灯っていた。


乱暴に扉を押し開けた男の視界に、床へ頽れ、鮮血に染まっていくリミの姿が映る。

そしてその傍らには、あの夜の、血の匂いを纏った斧の男が立っていた。


「なんだ、もう戻ったのか。せっかく留守の時間を狙ったのによ」

斧の男は、肩に担いだ斧を弄りながら下卑た笑みを浮かべた。

「なああんた、どっかで見たことあると思ってたんだ。……『解体屋』。随分と薄汚く変わっちまったな。あんたほどの大物が、こんな山奥で生きてんのかよ」


男の思考が一瞬、完全に停止した。

だが次の瞬間には、男の肉体はかつての神速を取り戻し、斧の男の胸ぐらを壁へと叩きつけていた。


「お、おい、なんだよ……っ!あんたに邪魔されたせいで、まだ仕事は終わってねぇんだ。同業者だろ?その女が生きてたら依頼主に面目が立たねぇんだよ、分かるだろ!」


お前は、殺される側の気持ちを、ただの一度でも考えたことがあるのか。

突如として奪われる側の人間がどう思うのか。

その人が積み上げていく未来や、何を夢見ているのかを、考えたことがあるのか──。


「あっ……、う……」

脳裏に言いたい言葉が津波のように募るほど、錆びついた男の喉からは言葉が遠のいていく。

「命を……」

それが、ようやく絞り出した掠れた叫びだった。


壁に押し付けられながらも、斧の男は小馬鹿にしたようにせせら笑った。

「『命』、ねぇ。おいおい、世界一命をゴミみたいにバラバラにしてきたあんたが、大層な口を利くじゃねぇか。散々殺しを楽しんできたくせに、自分が気に入った女だけは殺すな、か?そりゃあ傑作だ。あんたが今まで殺してきた連中の前で、同じことを言ってみろよ」


斧の男の言葉は、鋭利な刃となって男の胸に突き刺さった。男は言葉を失い、斧の男を突き放すと、床に倒れるリミへと駆け寄った。


呼吸は浅い。だが、胸元を赤く染めるその傷からは、まだ確かな拍動が伝わってくる。

「大丈夫……。まだ……間に合う……」


背後から、金属を引き摺る音と共に斧の男が近づいてくる。

「おっと、しぶといな。まだ生きてんのかよ」


男は弾かれたように立ち上がり、もう一度、斧の男の襟元を掴んで怒号を浴びせた。

「誰の、依頼だ……!」


斧の男は不愉快そうに口を歪めた。

「こいつの研究チームに多額の金を融通してやってる出資者さ。金を出してやったんだから自分のものになると思ったらしいが、どうやらこの女に振られたらしくてな。プライドを傷つけられた金持ちの八つ当たりさ。まぁ、よくある安い依頼だよ」


それだけで。ただ、それだけの、身勝手な理由のために。

激しい吐き気が男の(はら)の底から込み上げた。

かつて、同じような下らない理由で、誰かの身勝手な都合のために何百人もの命を無慈悲に「解体」してきた過去の自分が、目の前の男に重なっていく。


「俺はあんたをプロとして尊敬してたんだぜ、解体屋。今のあんたに、俺を咎める権利なんて何ひとつねえよ。そこをどきな」


斧の男は大きく斧を振りかぶった。

男の精神は、すでに限界を迎えていた。


「ふ……ざけ……るな……!!」


地を這うような、低い声だった。

けれど、そこに含まれた圧倒的な殺意と怒りは、明確に部屋の空気を震撼させた。


これまで、仕事として、息をするように淡々と人を殺してきた男が。

人生で初めて、心の底から「この男を殺したい」と、激情のままに願った。


男が放った凄まじい眼光に圧され、斧の男の動きが一瞬だけ硬直する。

男にとって、その刹那の一瞬があれば十分だった。


懐へ潜り込み、みぞおちへ鋭い肘打ちを叩き込む。

ひるんだ斧の男の腕を捕らえ、一息に土間へと投げ飛ばした。

激しく頭を打ち付け、一撃で意識を失う斧の男。


──結局、なにも変わらないではないか。


男は倒れた同業者を一顧だにせず、リミの元へと這い寄った。

震える手で、必死に止血の応急処置を施す。


「ダメだ……ここじゃ、これ以上は……助けられない……」


男はリミの身体を、傷口が響かないよう優しく、けれど強く抱きかかえると、夜の山を飛び出した。

目指すのは、麓の町。人間たちのいる、病院だ。


「あっ……、あぁ………」


自分がどれほどの罪を犯してきたとしても。

目の前にあるこの命を、見捨てていい理由にはならない。


リミを死なせない。この命を、彼女が夢見た未来を、ここで終わらせてたまるものか。

傷口が開かぬよう、極力振動を与えないように、男は必死に夜の斜面を駆け下りた。


だが、足が酷く重い。

かつて暗殺者として完璧に鍛え上げられていた肉体は、今の果てしない苦行によって、みすぼらしいほどに痩せ細っていた。

一歩を踏み出すたびに、底なしの泥の中を歩いているかのように足が上がらなくなる。


今だけは、あと少しだけでいい。止まらずに動いてくれ──。


焦燥とは裏腹に、脚の重みは増していく。足先から足首へ、足首から膝へ、冷たい重苦しさがじわじわと這い上がってくる。



──なぜだ。なぜ、今になって邪魔をする。



これまで男がどれだけ願っても姿を見せなかった無数の亡霊たちが、今、男の四肢に縋りつき、引きずり降ろそうと離さない。



違う。そうじゃない。そうじゃないだろう。

お前たちが連れて行くべきなのは、私のはずだ。

なぜだ。リミは関係ない、この子を連れて行かないでくれ。



息が苦しい。冷たい無数の手が、男の喉を締め付けていく。

私には、もう誰も助けることすら許されないというのか。


漆黒の闇の中を、男はただ、血を吐くような思いで走り続けた。腕の中で、リミの脈拍が目に見えて小さく、細くなっていくのが分かる。


分かっている。私のような人殺しに、彼女と過ごしたあの穏やかな日常など、到底許されるはずのない幸福だったのだ。

もう、何も望まない。私の命も、魂も、すべてをここに差し出す。

だから──だから、この子だけは見逃してくれ。


絶望的な暗い暗い闇の向こう、木々の隙間から、ぽつりと町の灯りが見えた。

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