いただきます
翌朝、強烈なほどの眩しい陽射しが小屋に差し込み、娘は目を覚ました。
いつもなら耳を叩いているはずの、あのカッ、カッと硬く冷たい木削りの音が、今朝は聞こえない。
訝しんで視線を巡らせると、男はいつもの定位置に腰掛け、彫刻刀を握ったまま静かに佇んでいた。
男は娘の眼瞼が動き、完全に意識が戻ったのを確かめると、まるでそれを合図にしたかのように、再び黙々と木を彫り始めた。
──もしかして、私が眠っている間、音を立てないように待っていてくれたのだろうか。
その不器用な気遣いに気づき、娘の胸の奥が少しだけ温かくなる。
枕元を見れば、今日も新鮮な山の果実がいくつか、そっと置かれていた。
「あの……あなたは、食べないの?」
男は刃先を動かし続けている。その背中には、やはり声が届いていないかのようだった。
だがしばらくして、不意に男の手が止まった。
幾日も彫り進めていた丸太が、ようやく一つの形を成したのだ。
男は完成した歪な仏像を優しく床へ並べると、一息つく間もなく、次の新たな丸太へと手を伸ばした。
「あの」
娘がもう一度声をかけると、今度は男も、ゆっくりと顔を上げた。
娘は枕元の果実を両手で包むように持ち上げ、はにかんだ。
「これ、あなたが起きるのを待ってたの。一人じゃなくて……一緒に、食べたいなって」
男は丸太を掴んだ姿勢のまま、しばらく石のように動かなかった。「誰かと食事の時間を共有する」という概念そのものが、男の人生には存在しなかったからだ。
やがて男は静かに丸太を置き、引き摺るような足取りでゆっくりと娘の方へ歩み寄ってきた。男は差し出された果実を一つ手に取ると、自分の前に静かに置き、昨日と同じように両手を合わせて深く頭を垂れた。
男が果実を小さく口に含んだのを見届けて、娘は静かに口を開いた。
「私、リミ」
男は咀嚼を止め、黙ってリミの瞳を見つめた。
「私、リミっていうの。……あなたは?」
昏い眼窩の奥にある瞳が、じっとリミを見つめ返す。長い沈黙のあと、男の乾いた唇が、微かに、けれど昨日よりは確かに形を成して動いた。
「私に……名前は……ない」
掠れてはいたが、それは昨日よりもずっと、人間の「言葉」の響きを持っていた。
「ふふ、なにそれ。じゃあ、なんて呼べばいいのよ」
リミは思わず声を立てて、少しだけ笑った。男のあまりに世間離れした返答が、おかしかったのだ。
男はリミの笑い声に一瞬だけ面食らったような表情を見せ、それから自身の血に染まった指先へと視線を落とした。
「ただの……彫り師……だ……」
「じゃあ、彫り師さんでいい?」
男はそれには答えず、ただ静かに最後の果実を口へと運んだ。
その日、二人がそれ以上の言葉を交わすことはもうなかった。けれど、小屋を満たす空気からは、かつての刺すような冷たさが少しだけ消え失せていた。
夕食の間、二人の間に会話はなかった。
だがその最中、リミは小屋の奥の暗がりに、ある奇妙な違和感を見つけた。
無数の仏像が立ち並ぶその最前列に、ぽつんと、他よりずっと小さな影がひとつだけ混ざっていたのだ。
目を凝らしてみる。薄暗がりの中でそれは、どこか滑らかな小さな魚の形をしているように見えた。
翌朝、目を覚ますと、男はまたいつもの場所に座っていた。
そしてリミは気づく。昨日の小さな影の隣に、さらにもうひとつ、真新しい小さな魚の影が並んでいることに。
昨日と同じように、枕元には朝の果物が置かれていた。
男はリミが起きたことに気づくと、珍しく自ら進んで布団のそばへと近づいてきた。男は果物を手に取ると、静かに両手を合わせた。
リミは、昨日からずっと胸に引っかかっていた疑問を、思い切って口にした。
「ねぇ、それって何してるの?」
男は動きを止め、何も言わずにじっとリミを見つめた。
「その、手をこうやって、胸の前で合わせるやつ。なんでそんなことしてるの?」
長い沈黙のあと、男はゆっくりと、錆びついた喉を震わせた。
「謝罪……だ。これから食べる……命に」
途切れ途切れで、消え入りそうな声だった。けれど、その意味はリミの胸に真っ直ぐに伝わってきた。
だからこそ、リミは彼の背負う重苦しさを和らげるように、ふっと柔らかく笑って答えた。
「それね、私の故郷じゃ『いただきます』っていうの。子供の時は毎回言ってたけど、最近はなんだか、言わなくなっちゃったな」
リミはそう言って、男と同じように胸の前でそっと両手を合わせてみせた。
掌は小さく、けれど男のものとは違って、どこまでも温かみを含んでふんわりと結ばれている。
「これから食べる命にありがとうって!」
いたずらっぽく、けれど真っ直ぐに紡がれたその言葉は、暗い小屋の空気を優しく弾いた。
男は、ほんの少しだけ目を見開いた。
男はリミの手元をじっと見つめ、それから、新しく並んだ魚の影に向けて、今までで最も深く、静かに両手を合わせた。
その日を境に、小屋に響くあの冷たかった木削りの音は、リミの耳に、ほんの少しだけ温かく聞こえるようになっていた。
二人が言葉を交わすのは、やはり食事の時だけだった。
話しかけるのはいつもリミからで、男から自発的に言葉を向けることはなかった。
リミは自分のこれまでの人生をぽつりぽつりと語り、時に男のことも尋ねたが、男はただ静かに聞いているだけだった。
だが、部屋の奥に佇むあの仏像の群れについてだけは、リミもどうしても聞くことができなかった。
毎日静かに増えていく、小さな魚の彫刻たち。それらが、男の胸中にある言葉にならない理由を、少しだけ代わりに語っているような気がしたからだ。
リミの脚の傷がすっかり癒え、あと少しで自分の足で歩けそうになった、ある夕暮れのことだった。
箸を置いた男が、珍しく自分から静かに口を開いた。
「リミは……普段は、何をして生きている」
初めて男の側から投げかけられた問いに、今度はリミの方が不意を突かれて言葉に詰まった。
「え、あ……」
驚きが通り過ぎたあと、リミは小さく破顔した。
「ふふ、私が話しかけなくても、ちゃんと自分から話せるんじゃん」
男は表情を変えず、ただじっとリミの瞳を見つめている。
「今まで話したこと、無かったっけ。こんなに毎日お喋りしてたのに。……お喋りって言っても、ずっと私が一人で喋ってただけだけど」
リミは視線を外し、蔀戸の向こうに広がる、燃えるような夕日を眺めた。
「私ね、世界中を旅して、まだ誰も知らない新しい植物を探してるの。世界には、まだ見つかってない未知の植物が山ほどあって、その中にはきっと、新しい薬の材料になるものもあると思うから」
窓の外の赤い光に照らされながら、リミは静かに続けた。
「今まで、成分が希少すぎて作れなかった特効薬とか、まだ治療法が見つかってない難病とか。そういう世界の理不尽を変えるきっかけになりたくて、今の研究チームに入ったの」
男は、夕闇の赤に染まっていくリミの横顔を、ただ凝視していた。
「チームの規模が大きくなって、出資者もたくさん増えたんだけど……。どうしてかな。ずっと真面目に、誰かの命を救いたくて生きてきただけなのに、なんであんな目に遭わなきゃいけなかったんだろ。このまえの夜も、通りすがりの親切な人に『この国は治安が悪いから、一人で歩いちゃ危ないよ』って教えてもらったのに。まさか、本当に誰かに狙われてるなんて、思うわけないじゃん」
リミの目元が、夕日に反射して微かに潤んだ。大人の理性を保とうとしながらも、理不尽な死の恐怖への悔しさと恐怖が、今になって堰を切ったように溢れ出していた。
男は深く息を吸い、ひび割れた声を出した。
「死とは、そういうものだ……」
リミが静かに男を見た。
「いつ、どこで、誰が……何も分からないまま、理不尽に消される。殺される人間に……悪い理由など、何ひとつない。いつも、奪う側の……ただの身勝手だ」
男はしばらくの間、自らの言葉の重さに耐えるように沈黙した。そして、リミが顔を向けると、逃げずにもう一度、真っ直ぐに彼女を見つめて言った。
「リミは、何も悪くない」
その言葉を告げた瞬間、男の視線はリミを通り越し、遥か遠くの、かつて自分が無慈悲に命を奪ってきた暗闇の過去を見つめているようだった。
男は痛いほどに分かっていた。自分がこれまで「解体」してきた無数の命もまた、彼女と同じように真面目に生き、何ひとつ悪くないまま、依頼者や自分の身勝手で消されていったのだと。
リミは、男の底暗い瞳をじっと見つめ返した。けれど、男の覚悟のような重みを受け止めきる前に、すぐに視線を窓の外の夕陽へと戻した。
男は静かに両手を合わせて一礼すると、いつも通り器を片付け始めた。
男が土間へと少し離れたとき、リミの唇から、小さく、けれどはっきりとした呟きが漏れた。
「ありがとう……」
男に反応はなかった。




