祈り
小屋が狭くなり始めた頃だった。
突如として、静まり返った山奥に鋭い悲鳴が響き渡った。
男は反射的に駆け出していた。聞き覚えのある声だった。
かつて男が、数え切れないほど耳にしてきた、命を奪われる者が放つ最期の絶叫。
人気のない山奥の斜面で、一人の若い娘が、手斧を弄ぶ男に追い詰められていた。
「嫌ぁ!こないで!!嫌ぁあ!!」
娘は剥き出しの脚から血を流し、地面を這うようにして必死に逃げ惑う。
「やっぱ殺すなら、こうやって啼かせてからじゃねぇとな」
男は着古した派手なジャージのポケットに片手を突っ込み、下卑た笑みを浮かべていた。
地方の不良がそのまま裏社会に流れ着いたような、二十代後半ほどの軽薄な佇まい。
依頼者の要求を盾に、いたぶる時間をただ楽しんでいる。
「ほら、逃げろ逃げろ。俺はかわいそうだと思ってんだぜ?でも依頼者はお前のことをよ、うんと痛めつけてから殺せって言ってんだよ」
ジャージの男は絶望する娘の前に回り込み、しゃがみ込んだ。娘は喉を震わせ、声にならない悲鳴を上げる。
男は手斧の刃先で、娘の脚を浅く切り裂いた。死なない程度に、苦痛だけが長引くように。
「あぁ、この時間がたまんねぇんだよ」
その時、ジャージの男は背後から近づく、葉を踏みしめる足音に気づいた。
「おいおい、嬉しいなぁ。ちょっと味気なかったんだ、目撃者なんて気分が上がるなぁ」
状況を理解するのに、一秒もかからなかった。
走り出した時にはもう、すべてを把握していた。
相手が手斧を構え直すよりも早く、男はその懐へと踏み込んでいた。飢えと苦行で痩せ細った身体。
だが、かつて何千人もの肉体を解体し、間合いを支配してきたプロとしての骨組みだけは、男の肉体に刻み込まれていた。
男は何かを怒鳴ろうとした。だが、乾いた唇から声は出なかった。あまりに長い間、人間の言葉を使っていなかった。
男はただ、無言のままジャージの男の眼前に立ち塞がり、その胸ぐらを掴んで冷徹に見下ろした。
剃り落とされた眉、青白い肌、そして底の割れない暗黒のような両眸。
ジャージの男は、目の前の痩せこけた男から放たれる「本物の死の気配」に直面し、蛇に睨まれた蛙のように息を呑んだ。
ただの一般人ではない。格の違う本物の怪物を前にして、一瞬で顔面を蒼白に染めた。
思わず後ずさり、男の腕を振り解くと、そのまま這う這うの体で山を駆け下りていく。
「くそ、何なんだよあのバケモノは……!」
男は逃げていく背中を、ただ黙って見つめていた。
その姿が見えなくなってから、男は地を這う娘の元へと歩み寄った。
傷は浅い。出血も致命傷には遠い。肉体の構造を知り尽くした男には、一目でそれが分かった。
「い、嫌ぁ!こないでぇ!!」
娘にとって、目の前に現れた痩せこけた男が何者なのか、分かるはずもなかった。
「だ……じょ……う……ぶ……」
絞り出したのは、人のものとは思えない掠れた擦過音だった。
娘は恐怖のあまりさらに錯乱し、男に向けて手当たり次第に石を投げつけた。無事な方の脚で泥を蹴り上げ、近づく男の腕に必死で爪を立てる。
このまま暴れさせていては、傷口が開き、出血がひどくなる。
男は、娘が振り回した腕をいなしてその身体を優しく、だが脱出できない強さで抱きすくめると、その首筋へと的確に指を滑らせた。
かつて何千人もの命の構造を解剖してきた指先だ。脳へ血を送る太い動脈の位置を、男の指頭は寸分の狂いもなく記憶している。
男は指先でその一点をじわりと圧迫した。
娘はなおも男の背中を叩き、激しく抵抗を試みる。しかし、脳への血流を絶たれたことで、数秒と経たないうちにその抵抗が目に見えて弱まっていった。
視界が狭まり、世界が遠のいていく。
「あ、あ……」
やがて娘の腕から完全に力が抜け、カランと手から石がこぼれ落ちた。
傷を増やすことなく、確実に無力化する──かつて殺しの現場で磨き上げた解体の技術が、娘の意識を静かに奪い去っていた。
娘はそのまま、崩れるように男の胸へと倒れ込む。
腕の中に残った、トントンと刻まれる確かな脈拍。
男は意識を失った娘を静かに抱き上げると、自らの木小屋へと歩み始めた。
──カッ……カッ……。
規則正しく響く、硬く冷たい音。
その硬質な音と、蔀戸の隙間から差し込む朝の光に解かされるようにして、娘は目を覚ました。
見覚えのない、ひび割れた天井。身体の下には古びた、けれど丁寧に天日干しされた匂いのする布団。
ふと視線を落とせば、傷ついた自身の脚には、山草をすり潰したような生薬ときれいな布できちんと手当てが施されていた。
そして、すぐ傍らの薄暗がりのなかで、あの痩せこけた男が黙々とナイフを動かし、木を彫り続けている。
娘は布団の上で、恐怖と戸惑いのあまりしばらく身動きが取れなかった。
やがて、昨夜の山中での悍ましい記憶が断片的に蘇り、目の前の男が自分を救ってくれたのだと理解する。
娘は、掠れた声を絞り出した。
「あの……」
男の手は止まらない。
「さっきは……その、助けてくれて、ありがとう……」
男は振り返りもしなかった。ただ、刃先が木を削る硬い音だけが部屋に響く。
何かに取り憑かれたようなその背中に、娘はそれ以上言葉を続けることができなかった。
傷口がまだズキズキと痛み、熱を帯びた身体は重い。
娘は拒まれるようにして、再び深い眠りへと落ちていった。
次に目を覚ましたときには、まぶたの裏が赤く染まっていた。
日が暮れ始めたのだ。さっきまで部屋の隅にいた男の姿は、どこにもなかった。
娘は寝返りを打ち、部屋の奥を見渡して息を呑んだ。
昏い夕闇のなか、無数の人の形をした彫刻が隙間なく並んでいた。
奥の暗がりに沈むそれらが、一体何を模したものなのかはよく分からない。
この狭い小屋に、一体どれだけの数が押し込められているのだろう。
できることもなく、娘はただ窓の外を眺めた。山の稜線に沈みゆく赤い夕陽が、酷く鮮やかだった。
しばらくして、外から男が戻ってきた気配がした。こういうとき、「おかえりなさい」と言うべきなのか、娘には分からなかった。
土間でガサゴソと何かが擦れる音が聞こえ、やがて、男が両手に食べ物を持って現れた。
山で採れたであろういくつかの野果実と、串に刺して無造作に焼かれた小魚だった。
「く……え……」
地鳴りのような、掠れた割り裂く声。男は静かに、その食事を布団の傍らへと置いた。
魚の焼けた香ばしい匂いが鼻腔を突き、娘の胃袋が小さく鳴った。しかし、目の前の男を見て、娘の手が止まる。
青白い肌。骨の形が浮き出るほどにやつれきった顔。
いま怪我で動けない私よりも、この男のほうが、よほど「死」の側に近く見えた。
男は感情の失せた瞳で、じっと娘を見つめている。
「……あなたも、食べないと」
娘は果物をひとつ手に取り、男の方へと差し出した。
男は動きを止め、果物と娘の顔を交互に見つめていたが、やがて拒絶することなく、それを大きな掌で受け取った。
男は果物を自分の前に静かに置くと、ゆっくりと両手を合わせ、深く頭を垂れた。
そこに会話はなかった。ただ、他者の命を喰らうことへの、恐ろしいほどの静謐な祈りだけが部屋を満たしていた。
小屋の中には、爆ぜる薪の音と、二人が静かに咀嚼する音だけが響く。
食べ終えると、男は何も言わずにまたナイフを握り、木を彫り始めた。
娘は、暗がりのなかで黙々と刃を動かし続ける男の横顔を、ただ静かに見つめていた。
カッ、カッ、という規則正しい音を聞きながら娘はいつの間にか、みたび健やかな眠りへと誘われていった。




