亡霊
これまで多くの命を殺してきた人間が、最後に自分を殺す。
実にいいじゃないか。
男は部屋の天井の梁に、縄を垂らした。
自分にできる償いなど、もはやこれ以外に思いつかない。
そう言い聞かせ目をつむり、迷いなく縄の輪に首を通した。
椅子を蹴り、一歩前へ。
不思議と、あの闘技場の夜のような恐怖はなかった。
──だが、どれだけ待っても暗転が訪れない。
異変に気づいて男が目を開けると、なぜか自分が冷たいフローリングの上に尻餅をついている。
見上げれば、縄はまるで引き裂かれたかのように、不自然にほつれて垂れ下がっている。自分の体重だけで千切れるほど細くはない。
「……なぜだ」
酷く不吉な、嫌な感覚が男の背筋を駆け上がる。
額を伝う冷や汗を拭い、男は遮光カーテンを開けて外を見た。
眼下に広がる街の夜景が、嘲笑うように明滅している。
失敗のない方法を選べばいい。
男は大きく息を吸い込むと、全面ガラス張りのフルハイトサッシを解錠し、そのまま夜の虚空へと突っ込んだ。
39階、地上120メートルからの自由落下。
これなら、絶対に失敗することはない。途中でいかなる遮蔽物にぶつかろうと、五体が原形を留めるはずがない。
落下する暗闇のなか、それでも男の胸から疑念は拭えなかった。
もしも、もしかしたら──。
男は強く目を瞑る。
肌をナイフのように突き刺す夜風。鼓膜が破れんばかりの、空気を切り裂く爆音。内臓が浮き上がるような強烈な重力。
そうだ。このまま終わればいい。すべてを無に返してくれ。
唐突に、猛烈な風切り音が止んだ。
体中を襲う凄まじい衝撃。
同時に、バリバリ、ベキベキと、何かが派手に粉砕される異音が耳の奥を叩いた。
──まだ、鼓膜が音を拾っている。なぜ、生きている。
目を開けても、視界は完全な暗闇のままだった。死後の世界とは、こういうものなのか。
違った。遥か上方に、夜空の月明かりがうっすらと差し込んでいる。
次第に目が慣れてくると、男は自分が白い破片の海に埋もれていることに気づいた。発泡スチロールだ。
それも、巨大なコンテナを埋め尽くすほどの大量の山。
どうやら運良く、あるいは運悪くか、その廃棄資材を限界まで積み上げた大型トラックの荷台へ直撃したらしい。
男は這うようにして白い山を登り、荷台の外へと這い出た。
全身を打ち付けて激痛が走るが、骨の一本すら折れていなかった。
──死んで楽になるな、と。
目に見えぬ何かが、そう告げているようだった。
「ならば、どうしろというのだ!」
男は夜空に向かって、声の限り叫んだ。
「亡霊どもよ、それならばせめて姿を見せてみろ!お前たちは私に何を望んでいる!」
答える者は、誰もいなかった。
翌朝、男は警察署の受付に立っていた。
自ら命を絶つことすら世界に拒まれたのなら、法の手に委ねて正当に裁かれ、刑を執行してもらおう。
これなら亡霊たちも満足するはずだ。
「私があの、『解体屋』だ」
男はいつも使っていた愛用のナイフを差し出し、淡々と自らの罪を告白した。
だが、応対した警官は、書類から目を上げることすらしなかった。鼻で笑い、ナイフを指先で追い返す。
「冗談はよしてくれ。あの『解体屋』が、証拠ひとつ残さず世界中の大物を葬ってきた凶悪犯が、こんな場末の署に自首してくるわけがないだろう。」
警官は厳しい顔で男に言い放った。
「それに、そんな果物ナイフみたいなもので死体をバラバラにできるか。今は内紛の処理でこっちは戦場なんだ。寝ぼけた悪戯をしてる暇があったら、とっとと家に帰りなさい」
度が過ぎた不審者として、男は厳重注意だけであっけなく署から追い出された。
白日の下に放り出され、男は乾いた笑いを漏らした。
警察すら自分を特別視せず、ただの狂人として処理する。
自分に楽な死は許されない。
仕事道具として唯一手元に残った、あの小ぶりなナイフだけを携えて、男は誰も近寄らない深い山へと入った。
拾い集めた廃材で小さな木小屋を組み、男はただひたすらに、木を彫り始めた。
誰も自分を呪いに来ないのなら、自らの手で呼び起こすしかない。
己を地獄へと引きずり下ろす亡霊たちを。
被害者たちの顔すら覚えていない。名前など覚えているわけがなかった。
だが、その命が消える瞬間、確かに男の網膜に焼き付いた「何か」がある。
男は、自らの記憶の底に沈んだ濁流をすくい上げるようにして、ナイフを丸太に突き立てた。
どうやって殺した。死ぬ間際に、奴らは何と言っていたか。
泣き叫ぶ声の狂おしい高さ。
助けを求める、光を失っていく瞳。
命乞いすらできずに、ただ痙攣していた肉体の震え。
彼らは最期に何を思い、どんな未来を夢見ていたのか。
刃先から、乾いた木屑が血飛沫のように舞う。
男は、形の定まらない丸太の中に一人ずつの残像を見出し、その怨嗟を木肌に刻みつけるようにして、仏の形をした亡霊を削り出していった。
自分が生きて苦しむ様を、特等席で見物していればいい。
いつしか、裏社会を震撼させた殺し屋は、ただの飢えた彫り師と化していた。
胃袋が限界を告げて悲鳴を上げれば、泥のついた木の根を掘り返し、獣のように歯を立てて噛み砕いた。
酷く苦い汁が口いっぱいに広がる。岩肌にへばりつく青苔を指の爪で削ぎ落とし、そのまま舌の奥に乗せて呑み込むこともあった。
生の山菜を口にしては、毒に侵されて激しい胃痛にのたうち回り、胃液の混じった酸っぱい吐瀉物を床にぶちまけた。
それでも、山を駆ける動物や、川を泳ぐ魚には決して手をなさなかった。
自分が生き永らえるためだけに、これ以上の命を奪うことなど、今の男には到底できなかった。
自らのゲロの臭いに咽びながら、血の滲む指先でなおもナイフを握り、ひたすら木を削る。
限界を迎えた身体が、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
数時間か、あるいは数分か、気絶に近い貪欲な眠りに落ちては、目覚めた瞬間に、もう次の丸太へと刃を向けていた。
朝も。夜も。激しい雨の日も。
男はただ、木を削る冷たい音だけを山に響かせ続けた。
小屋には、仏像がまた一つ、また一つと増えていく。
いまだ亡霊は姿を見せなかった。




