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そして殺し屋は彫り師になる  作者: Aです


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2/5

高層マンションの部屋から街を見下ろす。いつも見下ろしていたはずの夜景を、今は眺める気にもなれなかった。高級なワインも、まるで泥水のようで口に合わない。


「まさか、自分がここまで繊細だったとはね」

男は自嘲気味に微笑んだ。

「馬鹿馬鹿しい。一回の敗北が何だ。寝れば忘れる」


暗い部屋の中、目を閉じる。だが、静寂の向こうからあの闘技場の記憶が、心臓の鼓動と共に跳ね返ってくる。

ふざけるな、と脳裏で毒づいた。ふざけた格好の男に圧されたから何だというのだ。

最強として裏社会に恐れられた矜持がある。これくらいで折れる自分ではないはずだ。


いつもの自分に戻るには、誰か一人でも殺せばいい。それだけのことだ。


男は夜の街へ出た。こんな夜中だ、歩く人間は少ない。生ぬるい夜風が頬を撫でる。

今日に限って内紛の銃声もなく、街は不気味なほど静まり返っていた。静寂が、あの時の恐怖を絶え間なく思い出させてくる。


カツコツと、ハイヒールが地面を叩く音が聞こえた。

スーツを着た娘が、川沿いを歩いている。こんな危険な国で夜更けに一人歩きとは、さぞ平和な国から来たのだろう。

警戒する様子もなく、立ち止まって星空を眺めている。どこまでも呑気な女だ。


背後を取ることなど造作もない。

あとはこの手を伸ばし、いつも通り首をへし折ればいい。そうすれば、いつものように戻れる。


手を伸ばす。ただ、それだけのことなのに、いやに手が重い。緊張で心臓がうるさかった。

──この女も、あの時の自分と同じ絶望を抱くのだろうか。


いつもの男であれば、とっくに仕事を終えていたはずだった。

なのに、男は女の首筋の手前で、手を伸ばしたまま完全に硬直していた。


バサッ!


静まり返った夜の川沿いに、場違いなほどの羽音が響き渡る。男が立ち尽くしている間に、ただ時間が過ぎ、鳥が飛び立ってしまったのだ。

普段なら絶対にあり得ない、殺し屋としての致命的な遅滞。


突然の激しい羽音に驚いた娘が、勢いよく振り返る。

「え?あの……どうしたんですか?」


伸ばしたままの手が、女の目の前で止まっていた。


まだ間に合う。このまま首を絞めて殺せばいい。周りに人の気配はない、多少の声を出されても誰も気づかない。

だが、動いたのは手ではなく、口だった。


「いや……肩に、埃がついていてね。夜空に見惚れているのを邪魔するのも悪いと思ったのだが、取ってあげようと思って」

娘はほっとしたように、どこか呆れた表情を浮かべた。

「あ、ありがとうございます」


──驚いたほどに呑気な女だ。この状況でまだ逃げ出しやしない。


今なら殺せる。殺さなければならない。

なのに、男の唇は勝手に言葉を紡いでいた。

「お嬢さん。この国の夜は危ない。早く宿泊先に戻りなさい」

「……。そうなんですね。ありがとうございます、お兄さんもお気をつけて」


娘は慣れないハイヒールでぎこちない足音を響かせ、足早に去っていった。

その足音が川のせせらぎに呑まれ、完全に消えてなくなっても、男は手を伸ばした姿勢のまま動けずにいた。


ふと見れば、伸ばしたままの男の指先には、小さな衣服の埃がひとつ、所在なさげにつまみ取られていた。


男はちっぽけな汚れを静かに見つめた。

そして、ゆっくりと指を開き、夜風へと放した。


「そうか。私に、牙はもうないのか」


闇に紛れて消えていく埃を見届ける男の背中に、かつての“解体屋”の面影はどこにも残っていなかった。



物語から出てきたようなあの男が本当に存在したのかはわからない。だが、己の牙が完全に砕かれたことだけは事実だった。

牙を失った自分に、もはや殺し屋として闇を生きる道など残されていなかった。

ならば、今さら表の光に足を踏み入れ、真っ当に生きる道があるかといえば、そんなものはどこを探しても見つからなかった。


あの眩しい高層マンションの部屋も、血の臭いが充満する裏社会も、もう自分がいるべき場所ではない。いや、この世界のどこを探しても、自分が立っていい土など一寸たりとも存在しないのだ。


──償わなければならない。


遠ざかる娘の足音に代わって、冷たい川のせせらぎが鼓膜を刺す。

脳裏に浮かんだその歪な言葉に、男は行くあてもなく歩き出し、暗闇の中で自身の頭を掻きむしった。

何が償いになる。これまで自分が弄び、解体してきた無数の命に対して、残された僅かな人生の何を差し出せば釣り合いが取れるというのか。


これまで「死」しか考えてこなかった頭で、冷え切った夜風に吹かれながら初めて「生」について思考を巡らせることは、目眩がするほどに難しかった。


奪ってきた命を、金で買い戻せばいいのか。

男の手元にあるのは、他人の命と引き換えに得た、おぞましく汚れた紙切れの山だ。

そんな血の染みついた金で、一体誰の何が救えるというのだろうか。


では、これからは人の命を救って生きろとでもいうのか。

男は、歩みを止めて自らの両手をじっと見つめた。

骨の噛み合わせ、内臓の配置、動脈の位置──頭に詰まっているのは「最も効率よく命を奪うための知識」だけだ。

傷を癒やす術など、何ひとつ知りもしない。


どうやって人を救えばいい。誰かを狙う同業者を返り討ちにし、そのターゲットを守ればいいのか。

馬鹿馬鹿しい。それでは結局、殺す相手が裏の住人に変わっただけで、自分の本質は何も変わらないではないか。


いっそのこと、これまで自分がなぶり殺してきた者たちの命が、亡霊となってこの暗い夜道へ押し寄せてくれたら、どれほど楽だっただろう。

闇の向こうから彼らが一斉に飛び出し、代わる代わるこの喉を掻き切り、地獄へ引きずり込んでくれるなら、喜んでその爪を受け入れたはずだ。


被害者の誰一人、何一つ覚えてはいない。


男を地獄へ引きずり込んでいく亡霊は誰一人現れてはくれない。


あの闘技場の夜、あのゴーグルの男が、ただの虫ケラを潰すように自分をそのまま殺してくれていたなら──どれほど救われただろうか。

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