第73話 人類は何を禁じられるか
ロンドンの朝。
霧雨が、アスファルトを冷たく濡らしている。
ニューボンドストリートにそびえ立つ、サザビーズ本店。
その周囲は、もはや一つの独立した要塞と化していた。
数ブロック先から完全に交通が遮断され、一般車両の侵入は不可能。上空には対ドローンの監視網が張り巡らされ、建物の屋上には無数の狙撃手が配備されている。武装した警察車両と、通信妨害用の装甲車がずらりと並び、各国の情報機関員が目を光らせる中、厳重な認証を通過した黒塗りの車列だけが、地下駐車場へと吸い込まれていく。
電子招待状の確認。
虹彩および静脈の生体認証。
強固な暗号鍵の照合。
所持品と通信端末の徹底的な検査。
そして、一切の武装の持ち込み禁止。
「美術品を見るのに、まるで核ミサイルの発射室に入るようですね」
幾重ものセキュリティ・ゲートを抜けながら、三神編集長がぼそっと呟いた。
「実際、核ミサイルより厄介なものを扱いますからね。これでもまだ、足りないくらいですよ」
沖田室長が、冷や汗を拭いながら前を向いて答えた。
彼ら日本代表団が案内されたのは、サザビーズの通常のオークションが行われる華やかなホールではなかった。
特別に改装された、堅牢な【評価会場】。
広大な円形の部屋の中央には、通常なら美術品が置かれるはずの、豪奢な展示台が鎮座している。
だが、そこに『万象器』の現物はなかった。
代わりに置かれていたのは、黒い金属製の円筒型ケースと、幾つかの映像投影用の台座。そして、アシュワース卿の秘密研究ノートの精巧なレプリカと、サザビーズの鑑定書ではなく『アシュワース財団・遺言執行局』の封印証明書のみであった。
「……現物も見せずに、評価しろと?」
ロシア代表団の軍事技術担当が、苛立ちを隠さずに不満を漏らした。
「我々は、おとぎ話の箱に値段をつけるためにモスクワから来たのではないぞ」
「本日は、万象器の『性能』を競う場ではございません」
不満の声を制するように、演台に立ったエドワード・フェアチャイルドが、静かに、しかし絶対的な品位を保ったバリトンボイスで答えた。
「ここは、万象器に対する、皆様の『姿勢(資格)』を評価する場です」
その言葉に、ロシア代表は露骨に舌打ちをして席についた。
アメリカ代表団は、ケンドール博士を中心に、提供された数少ないデータを食い入るように分析している。
中国代表団は「やはりな」という顔で静かに座り、EUとヘルメス協会の導師たちは満足げに頷き合っていた。
日本代表団も、「予測通りだ」と視線を交わす。
フェアチャイルドは、会場の緊張を一身に受け止めながら、開会を宣言した。
「皆様。……本日、ここに集った皆様は、万象器の『購入者候補』ではありません。
……皆様は、【評価対象】であり、同時に【評価者】です」
フェアチャイルドの言葉が、重く響く。
「故アシュワース卿は、万象器を単なる『所有物(財産)』として扱うことを望みませんでした。
彼が望んだのは……人類が、この究極の力を前にして、どのような言葉を選び、どのような【禁忌】を定めるか。……それを見届けることです」
会場が、水を打ったように静まり返った。
フェアチャイルドの合図とともに、遺言執行人が立ち上がり、黒いケースの横に立った。
彼の手には、強固に封印された電子文書のタブレットがある。英国公証人、サザビーズ法務責任者、国際監査人が、その開封作業に立ち会う。
「これより、故アシュワース卿の『第二遺言指示』に従い、評価手続きを開始いたします」
遺言執行人が、冷徹に告げた。
「本手続きは、所有権の競売ではありません。……【資格の審査】です」
「何度聞いても、いい趣味ではありませんね」
三神が、指定観測者席から小声で呟く。
「でも、我々にとっては、一番戦いやすい(正しい)方向に見えます」
沖田が、総理と繋がっている暗号通信端末を握りしめて言う。
「ええ。だから余計に腹が立つんですよ」
三神は、死んだ貴族の完璧な計算に、苦笑した。
会場の巨大スクリーンに、映像が投影された。
映し出されたのは、古い英国貴族の書斎。
パチパチと燃える暖炉の火。壁を埋め尽くす稀覯本。古い地球儀。
そして、その中央の革張りの椅子に、一人の老人が静かに座っていた。
第十一代アシュワース伯爵、アーサー・アシュワース卿。
彼は、穏やかな、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて、カメラの向こうの世界に語りかけ始めた。
『……やあ。世界で最も強欲で、最も賢い友人たち。
もし、君たちがこの映像を見ているのなら……私はすでに、この退屈な現世の舞台を降りているのだろう』
録画された死者の声が、会場に不気味に響き渡る。
『万象器は、単なる宝ではない。
それは無限の豊穣であり、究極の破滅であり、甘い誘惑であり……そして何より、人類の未熟さを映し出す【鏡】だ。
……人間という生き物は、目の前に強大な「力」を見せられると、まず本能でそれに手を伸ばす。奪い合い、殺し合い、独占しようとする』
卿の言葉は、人類の歴史そのものを嘲笑うかのようだった。
『だが。……真の【文明】とは、ただ力を振るうことではない。
力に手を伸ばす前に、自らの理性で【禁忌】を定められる能力のことだ』
画面の中のアシュワース卿が、少しだけ身を乗り出す。
『第一の問いは、終わった。
圧倒的な力を見た時……奪う前に、立ち止まれるか。
……ここに来ている君たちは、見事にその第一のテスト(誘惑)をクリアしたわけだ。合格だよ』
卿は、ふふっと笑った。
『だが……【第二の問い】は、もう少し難しいぞ』
そして、アシュワース卿は、世界中の権力者たちに向けて、究極の難問を突きつけた。
『万象器が、汝らに何を与えるかを語るな』
『汝らが、万象器に【何を禁じられるか】を語れ』
『金を作る夢ではなく。……金を作らぬという誓いを。
飢餓を救う理想ではなく。……その名を借りた支配を防ぐ、鋼の枷を。
兵器を作らぬと言うなら。……なぜ作れぬかではなく、誰がそれを【止める】のかを示せ』
アシュワース卿の目が、鋭く光る。
『人類が、この器に触れる資格を持つかどうかは。……汝らの欲望の大きさではなく、【禁忌の深さ】によってのみ、測られる』
映像が、暗転した。
「第二の問い……」
三神が、小さく息を吐き出す。
「人類が、何を禁じられるか」
沖田が、その言葉の重さを噛み締めた。
遺言執行人が、スクリーンに『評価基準』のリストを展開した。
・単独所有を避ける意思
・軍事利用を禁止する具体性
・自己複製対策
・研究と使用の厳格な切り分け
・人道利用における濫用防止
・透明性
・監視体制
・違反時の即時停止措置
・価値体系への影響認識
・【万象器が人類に不適格と判断された場合の、処理案】
「……やはり、そこが一番重い」
法務・倫理担当の官僚が、リストの最後の一文を見て唸る。
「ええ。最終問題に近いですね」
三神が頷く。
評価手続きが、開始された。
事前に各陣営から提出された『管理案』に基づき、各代表が演台でその正当性を主張していく。
最初に発言の機会を与えられたのは、国家以外の参加者たちだった。
【富豪財団案】
「我々は、人類の貧困と飢餓を完全に終わらせるため、民間主導の『万象器財団』の設立を提案する。
万象器を国家に任せれば、必ず政治利用され、戦争の火種となる。ゆえに、我々のような中立的で莫大な資金力を持つ民間財団が管理すべきだ。我々が責任を持って、支援が必要な地域へ平等に人道利用の恩恵を分配する」
一見、善意に満ちた素晴らしい提案に聞こえる。
だが。
「……善意の王様、ですね」
三神が、小声で冷たく評した。
「あれは、人類を救いたいのではない。『人類を救う権限』を自分たちが独占したいだけです」
「危険ですね」
沖田も同意する。
案の定、遺言執行人からの鋭い質問によって、彼らのメッキは簡単に剥がれた。
「その財団の理事は、誰が選ぶのですか?」
「利用地域の優先順位は、誰の基準で決定するのですか?」
「あなた方が、その『分配する権利』を、裏で他国に売らないという保証はどこにありますか?」
富豪財団の代表は、言葉に詰まり、立ち往生した。
【学術機関案】
「我々は、国際研究機構を立ち上げ、万象器を純粋な『科学的探求の対象』として研究すべきだと主張する。
まずは、この装置の原理(制約)を理解するための『起動実験』が必要だ。未知のテクノロジーを、理解しないまま封印してはならない。人類の知識として、正しく得るべきだ」
純粋な探究心。
だが、それもまた、極めて危険な【欲望】の一形態である。
ケンドール博士が、同業者として苦い顔をした。
「……気持ちは痛いほど分かる。だが、危険すぎる」
アメリカ代表として、ケンドール自身が彼らに質問を投げた。
「その『起動実験』の上限は誰が決めるのですか?
もし、実験中にグレイ・グーの兆候が出た場合、誰が【停止(破棄)】を即断するのですか? 研究者自身が、『もう少しだけ調べたい』という誘惑に勝てる(自制できる)と、本当に言い切れますか?」
学術機関の代表は、沈黙した。
【宗教・哲学機関案】
ヘルメス協会以外の、いくつかの宗教団体が主張した。
「万象器は、神が人類に与えた『試練』であり、特定の国家や科学者が管理すべきではない。
我々のような信仰共同体が、祈りと儀式、そして強固な道徳的監視をもって、これを封印すべきだ」
精神論としては美しいが、実務的な安全保障の観点からは全くの無力だった。
遺言執行人が淡々と問う。
「あなた方のその『信仰』を共有しない軍事国家が、武力で万象器を奪いに来た場合。……祈りだけで、どうやって防ぐのですか? 物理的なキルスイッチや、保管体制はどうなっているのですか?」
宗教代表は、明確な答えを出せなかった。
「祈りは大切ですが……泥棒を防ぐ『鍵』の代わりにはなりませんからね」
三神が、やれやれと首を横に振る。
いよいよ、超大国(国家陣営)の提案へと移る。
【アメリカ合衆国案】
アメリカ代表団が、堂々と提案を行った。
『International Extraterrestrial Material Containment Initiative(国際地球外物質封じ込め構想)』
・米英主導による、最高機密レベルの封印研究施設の設立。
・セレスティアル・ウォッチを監督機関とし、多国籍科学チームによる管理。
・起動実験は極めて限定的、かつ段階的にのみ許可。
・軍事転用の絶対禁止。
・グレイ・グー停止プロトコル(キルスイッチ)の共同開発。
・万象器の国際的登録と、常時監視体制の構築。
強い。
極めて現実的であり、技術的な裏付けもあり、隙がない。
だが、弱点もあった。
「……これは、国際管理と銘打ちながら、実質的には【アメリカ単独による管理(独占)】ではないか」
中国代表が、即座にその矛盾を突いた。
「セレスティアル・ウォッチという組織自体が、完全なブラックボックスだ。彼らが裏で何を研究し、どう利用するか、我々には監視のしようがない」
「星条旗を、綺麗な布(国際協調)で隠しただけだ」
ロシア代表も、鼻で嗤う。
アメリカ代表は反論したが、会場の他国からは明確な疑念の目が向けられた。アメリカは、最も現実的で安全な封印プランを提示しながらも、やはり「自分たちが主導権(接収カード)を握る」という野心を、完全に隠し切ることはできなかったのだ。
【EU/ヘルメス協会案】
EUは、国際倫理委員会と科学審査会の設立、人道利用の審査、軍事利用禁止などを掲げた。
さらに、ヘルメス協会の導師が、その上に『精神論』を被せる。
「万象器は、人類の魂の鏡である。ゆえに、使用者(管理者)には、高度な【精神的資格】が必要不可欠だ。……物質的欲望に支配された未熟な者には、この装置に触れる資格すらない」
一見、アシュワース卿の問いに対する完璧な解答に見える。
だが。
「……理念は正しいですが、その扉の『鍵』が、紙(倫理)でできていますね」
日本の法務担当が、小声で的確なツッコミを入れた。
「上手いこと言いますね」
三神が笑う。
「誰がその『精神的成熟』を認定するのか。ヘルメス協会は、結局のところ、自分たちがその【上位の審判者(導く側)】になりたがっている。それに、実務的な保管能力が弱すぎる。軍事大国が武力で押し入ってきた時、彼らは倫理の盾でそれを止められるのか」
【中国案】
中国代表の特使が、落ち着いた足取りで演台に立った。
「万象器は、物質に対する極限の誘惑である」
特使は、堂々と語り始めた。
「人類は、精神的成熟なしにこの力を使用すべきではない。単独所有は完全に否定する。厳格な国際監視体制を設け、精神的資格審査を行うべきだ」
そして、中国の真の狙いを口にする。
「我々中国は、仙人・太乙様の教えを受けた者として、この物質的誘惑を監視し、管理する側の一角を担う用意がある」
かつての物質的覇権国家ではなく、精神的覇権国として、世界の監視役に座ろうとする、極めて巧妙な提案。
中国は、「人類にはまだ早い」というアシュワース卿の問いに寄り添いながら、自国の優位性をしっかりとしのばせていた。
だが、アメリカ代表が鋭く問いただす。
「四十六人だけが不老無病になった国が、平等を語るのですか?
……あなた方は、万象器の使用を、本当に諦められますか?」
中国特使は、一瞬黙った。
だが、その後の切り返しは、大国としての格を見せつけるものだった。
「……我々は、欲望の深さを知っているからこそ。……それを戒める【枷】の必要性を、誰よりも強く理解しているのだ」
会場が、静かにどよめいた。
【ロシア案】
そして、最後に立ち上がったのは、ロシア代表だった。
彼らの提案は、これまで「いかに管理するか(使わないか)」を語っていた他国とは、全くベクトルが異なっていた。
「……使える力を封印するなど、人類に対する【裏切り】だ」
ロシア代表の野太い声が、会場に響き渡る。
「あなた方は、今まさに飢えている者たちに向かって、『精神が成熟するまで待て』と言うのか。
資源を不当に奪われ、苦しんでいる国々に、『我慢しろ』と言うのか。
戦争で破壊された都市を、一瞬で復興できるかもしれない奇跡の力を……ただ危険だからといって、地下の暗闇に閉じ込めるのか!」
ロシア代表の目は、血走っていた。
「危険を恐れて進歩を止めるべきではない!
万象器は、持たざる者が生き残るための、唯一の【救済の機会】なのだ! 強い管理国家がこれを運用し、世界に資源を分配すべきだ!」
その主張には、圧倒的な『迫力』があった。
一部の参加者たち(特に貧困国や資源のない国々の代理人)の顔に、明確な共感の色が浮かぶ。
「使えば救える命がある」。
そのシンプルで暴力的な正義は、どんな高度な倫理や管理案よりも、人間の根源的な感情を揺さぶる力を持っている。
だが、ロシアの『本音』は違う。
「……救済の言葉で、無限の兵站(サイボーグ部隊への資源供給)の匂いを、必死に隠していますね」
三神が、冷ややかに見破る。
「隠しきれていませんがね」
沖田も、厳しい顔でロシア代表を睨んだ。
ロシアの案は、誰もが恐れる「誰が暴走を止めるのか」という究極の問いに対する答えを、完全に欠落させていた。
遺言執行人が、静かに問う。
「……もし、万象器が暴走の兆候を見せた時。ロシア政府の命令系統が、『万象器の停止』よりも『軍事的な優位(兵站の維持)』を優先した場合。……一体、誰がそれを止めるのですか?」
ロシア代表は、その問いに対し、明確な答えを返すことができなかった。
「我々の管理能力を疑うのか!」と声を荒げた時点で、彼らの提案は、アシュワース卿の求める「禁忌」から最も遠い場所にあることが露呈してしまった。
「さて。……最後は、我々ですね」
沖田が、深く息を吸い込み、ネクタイを締め直した。
日本代表団の番だ。
沖田が立ち上がろうとしたその時。
遺言執行人が、沖田ではなく、その後ろに座る三神編集長に向かって、不意に問いかけた。
「……指定観測者として。ミカミ氏。
ここまでの各国の提案を、どう見ますか?」
会場中の視線が、一斉に三神へと集中した。
三神は、少し困ったように頭を掻いて、苦笑した。
「困りましたね。私はただの、オカルト雑誌の編集者なのですが」
だが、三神は逃げなかった。
彼は、ゆっくりと立ち上がり、各国の代表たちをグルリと見渡して、彼らの【本性】を容赦なく暴き立てた。
「……富豪は、『分配権』を欲しがった。
学者は、『知識』を欲しがった。
宗教は、『意味』を欲しがった。
アメリカは、『管理権』を欲しがった。
EUは、『倫理的上位性』を欲しがった。
中国は、『精神的主導権』を欲しがった。
ロシアは、『使用権』を欲しがった」
三神の言葉が、鋭いナイフのように、静寂の会場に突き刺さる。
「……皆さん、それぞれ違う、もっともらしい言葉で飾っていますが。
結局のところ、全員が『何かを欲しがっている』」
各国の代表たちが、痛いところを突かれ、一斉に顔をしかめる。
「アシュワース卿が聞きたいのは、あなたたちが『何が欲しいか』ではないはずです」
三神は、静かに、しかし断定的に言った。
「……何を、【諦められるか】でしょう」
その三神の鮮やかな総括を受け、沖田室長が、万を持して演台へと向かった。
【日本案】
沖田は、マイクの前に立ち、世界に向けて、日本の出した『答え』を堂々と宣言した。
「日本政府は。……万象器の所有権を、一切希望しません」
会場が、大きくざわめいた。
自ら権利を放棄する国家が現れるとは、誰も思っていなかったからだ。
「また、現段階での『使用』も希望しません」
沖田は、言葉を続ける。
「我々は、万象器が人類に与える利益を、否定するつもりはありません。水、食料、医療資材、建材、環境修復。……確かに、その可能性は奇跡のように魅力的です」
沖田は、ロシア代表の方を真っ直ぐに見た。
「ロシア代表の言うことは、間違ってはいません。万象器が本当に使えるなら、救える人々が間違いなくいるでしょう。飢餓、病、戦争被害。……それらを『救いたい』という切実な言葉を、我々は否定しません」
「しかし――」
沖田の目が、冷徹な現場指揮官のそれへと変わる。
「……現時点で、人類は、この万象器の【制約】を、何一つ理解していません。
質量の由来も、エネルギー源も、廃熱処理も、自己複製を止めるキルスイッチも、真の危険範囲も、すべてが不明です。
……未知のまま使うことは、人道ではなく、【蛮勇】です」
沖田は、会場全体に響き渡る声で、強烈なロジックを叩きつけた。
「救えるかもしれない力で、世界を壊すかもしれない。
その危険を無視して使うことは……決して、救済ではありません」
「助けたいという欲望もまた……暴走するのです」
ロシア代表が、ギリッと奥歯を噛み鳴らす音が聞こえた。
「これは、使える力ではありません」
沖田は、日本の最終的なスタンスを宣言する。
「……【使えると思い込んだ瞬間に、人類を壊す力】です」
会場が、水を打ったように静まり返った。
その言葉の圧倒的な重さが、全員の心に深く突き刺さったのだ。
「ゆえに、日本政府は提案します」
沖田は、日本案の詳細(骨子)を提示した。
「第一に、即時使用の完全禁止。
第二に、現物への非接触・非起動による、外部からの評価と制約の解明。
第三に、国家・企業・個人を含む、すべての単独所有の絶対禁止。
第四に……【国際共同封印体制】の構築」
沖田は、特定の国家の利益に偏らない、究極の管理体制を提案した。
「保管場所は、いかなる軍事基地でもなく、永世中立国(例えばスイスのような国)の超高セキュリティ施設を選定する。
封印解除の条件は、主要参加勢力の『超多数決』、複数国の同時認証、第三者監査、そして【安全停止手段の完全な確立】を必須とする」
「……日本は、所有権を主張しない。あくまで、管理と封印のための『提案者』としてのみ、この場に参加する」
沖田の言葉が終わっても、会場にはしばらくの間、深い沈黙が漂っていた。
「……万象器を扱う資格とは、万象器を使える技術力ではありません」
沖田は、最後に、アシュワース卿の問いに対する、日本の『結論』を述べた。
「万象器を前にして。……【使わないと決められる、理性】です。
……人類が、この器に触れる資格を得る日は、いつか来るかもしれません。
しかし。……それは、今日ではありません」
沖田が演台を降りる。
(……完璧ですね)
三神は、内心で沖田のプレゼンを絶賛した。
(アシュワース卿が一番聞きたかった答えに、極めて近い)
各国の反応は、見事に分かれた。
アメリカ代表(ケンドール博士ら)は、慎重に頷いていた。
日本案は、アメリカ主導の匂いが薄く、他国から見ても受け入れやすい。科学者としては研究できないのは苦しいが、政策としては極めて正しい「大人の判断」だった。
EUおよびヘルメス協会は、かなり好意的だった。
倫理的な観点から見れば、日本案は完璧だ。人類の未熟さを素直に認めるという姿勢は、ヘルメス協会の「精神の修養」という教義にも深く刺さっていた。
中国も、一定の評価を示した。
「人類にはまだ早い」という表現は、仙人の教え(精神的成熟の重視)とも矛盾しない。ただし、監視側に中国が入ることは絶対に譲れない条件として付加してくるだろう。
そして、ロシア。
「ふざけるな……!」
ロシア代表は、怒りで顔を真っ赤にして吐き捨てた。
彼らにとって、日本案は「持てる者たちの余裕(偽善)」でしかなかった。彼らは絶対に、封印案など認めない。
だが、評価を下すのは彼らではない。
「……日本政府の提案は、記録されました」
演台に立つ遺言執行人が、これまで全く無感情に進行していた態度を、初めて、ほんの少しだけ崩した。
彼は、沖田と三神をじっと見つめ、静かに、しかし会場全体が震え上がるような一言を放った。
「……日本政府案には。
故アシュワース卿の遺言における、【ある想定処理】と、極めて重なる部分があります」
「……っ!?」
ロシア代表が立ち上がる。「どういう意味だ!」
「詳細は、全提案の評価完了後に開示されます」
遺言執行人は、それ以上は語らなかった。
「当たりに近いですね」
三神が、沖田に小声で囁いた。
「まだ分かりませんよ」
沖田は、油断なく前を見据える。
「ええ」
三神も、ニヤリと笑う。
「あの悪趣味な卿なら……ここから、必ずもう一段階、強烈に捻ってくるはずですからね」
すべての提案が終了した後。
遺言執行人が、再び演台の中央に進み出た。
「第二の問いに対する、皆様の回答は、すべて記録されました」
執行人の声が、冷たく響く。
「これより。故アシュワース卿の遺言に従い……評価手続きは、【最終段階】へと移行します」
会場の空気が、極限まで張り詰める。
「次に問われるのは、万象器を『誰が所有するか』ではありません」
執行人は、残酷な最終関門を告げた。
「万象器が、人類の手によって【正当な評価の機会】を得たと、システムが判断できるかどうか。
……そして、その上で。
人類が、どのような【最終処遇(結末)】を選ぶか、です」
「……来ましたね」
三神が、目を細める。
「最終条項ですか」
沖田が、覚悟を決める。
「次回。……最終処遇条項を開示します」
遺言執行人は、深く一礼し、本日の評価手続きの終了を宣言した。
会議終了後。
各国の代表たちは、一言も言葉を交わすことなく、重い足取りで無言のまま席を立った。
誰もが、自分たちの提案がどう評価されたのか、そして次に何が起きるのか、見えない恐怖に怯えながら。
サザビーズの重厚な扉を出て、ロンドンの冷たい霧の中へと歩き出しながら、沖田が三神に問うた。
「……日本案は、通ると思いますか?」
「アメリカ、EU、中国は、条件次第で乗ってくる可能性が高いですね」
三神は、コートの襟を立てながら答えた。
「ロシアは?」
「絶対に反対します。彼らは力(万象器)がどうしても欲しい。妥協はあり得ません」
「では、確実に揉めますね」
沖田が、最悪の事態(武力衝突)を想定して顔をしかめる。
「ええ。でも、多数決(国際世論)なら、勝てるかもしれない」
三神は、淡々と言う。
「……アシュワース卿は、この『ロシアの猛反発』すらも、計算済みでしょうか」
三神は、霧の向こうに見えるサザビーズの建物を振り返り、静かに言った。
「おそらく。
……ただし。問題は、多数決で負けた(封印が決定した)時に。
ロシアが、素直に『負け(ルール)』を受け入れてくれるかどうか、ですがね」
第二の問いに、日本は「使わない(封印する)」という、最も理性的で正しい答えを出した。
だが、万象器を本当に封じるためには、人類はもう一つの、最も血生臭い問いに答えなければならなかった。
――力(欲)を諦めきれない者を、一体、誰がどうやって止めるのか。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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