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第72話 ロンドンに集う者たち

 万象器の存在が世界に公表され、人類がこれまで信じて疑わなかった「価値」という概念に巨大な亀裂が走ってから、1か月が経過していた。


 世界中の金融市場は、完全な崩壊という最悪の「心停止」こそ免れていたものの、依然として深刻な『不整脈』の状態から抜け出せずにいた。

 市場が開くたびに、ゴールドやプラチナの価格は神経質に反発と暴落を繰り返し、レアメタル銘柄の中には買い手が全くつかず取引停止に追い込まれるものが続出している。宝石市場は事実上のフリーズ状態に陥り、歴史ある美術品市場ですら、誰もが「明日にはこのキャンバスの真贋すら無意味になるのではないか」という恐怖に囚われ、不気味な静けさを保っていた。

 逃げ場を失った投機マネーはデジタルゴールドへと雪崩れ込み、連日異常な暴騰と乱高下を繰り返している。各国の主要中央銀行は連名で「市場の安定を維持する」との緊急共同声明を発表したが、その言葉に耳を貸す者は少なかった。


 中国への経済制裁による物理的な『供給網の停止』とは違う。

 今回の危機は、物質の価値そのものが揺らぐという、人類の精神構造へのダイレクトな攻撃であった。

 人々は、万象器が本物かどうかまだ分からない。それでも、もう以前のように「希少なものは永遠に希少である」と無邪気に信じることができなくなっていたのだ。


 そんな、世界中が価値の目眩に苦しんでいる最中。

 すべての嵐の中心地であるイギリス・ロンドンは、前例のない、そして極めて異様な【厳戒態勢】の只中にあった。


 一見すると、霧雨に煙るロンドンの街並みは、歴史ある日常の風景を保っているように見える。

 赤い二階建てバスが走り、石造りの街並みには傘をさした観光客やビジネスマンが行き交い、パブからはビールのグラスを打ち鳴らす音が聞こえてくる。


 だが、その実態は、完全に統制された『見えない戦場』であった。


 サザビーズ本店の存在するニューボンドストリート周辺は、何重もの見えない包囲網に覆われていた。

 交差点の死角には重武装のロンドン警視庁スコットランドヤードの特殊車両が待機し、歴史的建造物の屋上には対テロ部隊の狙撃手が冷たい雨に打たれながらスコープを覗き込んでいる。

 地下鉄の廃線ルートや下水道は完全に物理封鎖され、上空には対ドローン用のジャミング・システムが常時稼働。MI5およびMI6のサイバー防衛部隊が、市内の通信トラフィックを毛細血管の先まで監視していた。


 さらに街を異様にしているのは、正規の警備網の隙間を縫うようにして入り込んでいる『国際的な観測団プレイヤー』たちの気配だった。


 高級ホテルのロビーには、屈強なスーツ姿のアメリカ人たちが陣取っている。

 五つ星レストランの個室は、中国系の財団関係者や、ロシア語で低い会話を交わす元軍人風の男たちで埋め尽くされている。

 EUの外交官たちとヘルメス協会の導師たちが連れ立って歩き、中東の王族の代理人や、名もなき超富裕層の使い走りが、血走った目で暗号化された端末を叩いている。


 誰もが、誰も信用していない。

 すれ違う人間のすべてが、万象器を強奪しに来た暗殺者か、情報を抜き取るスパイに見える。


「英国は、紅茶と議会制民主主義の国だ」

 ホワイトホールの地下にある、英国政府の危機管理室。極度の睡眠不足で目の下に濃い隈を作ったMI6の幹部が、冷めた紅茶のカップを握りしめながら、胃を押さえて呻いた。

「だが今、我々が抱え込んでいるのは……紅茶でも民主主義の議論でも絶対に処理しきれない、世界を終わらせる悪魔の箱だ」


 英国政府の立場は、控えめに言っても【最悪】であった。

 万象器は、英国のパスポートを持つ貴族の遺産であり、発表場所は自国のサザビーズ本店。当然、英国にはこの事態を安全に管理する責任がある。

 だが、英国政府が単独で武力を行使して万象器を「国家接収」しようとすれば、アメリカ、中国、ロシア、EUが一斉に牙を剥き、ロンドンは火の海になる。

 かといって、指をくわえて民間サザビーズのオークションに任せておけば、世界中のテロリストや軍隊が会場に突入してくる危険性がある。

 アシュワース財団の法務網は国際法的に完璧に構築されており、招待国の入国を拒否すれば致命的な外交問題になり、受け入れれば最悪の治安リスクを抱え込む。


「上品な街ですね」

 その頃、ヒースロー空港からロンドン市内へと向かう防弾仕様の公用車の中で。

 月刊ムーの三神編集長は、車窓から見える濡れたレンガ造りの街並みを眺めながら、ふっと笑って言った。

「火薬と血の匂いを……アールグレイの香りで、必死に誤魔化して隠している」


 日本代表団は、アシュワース卿からの『死者の招待状』に応じ、ロンドンに到着していた。


 遡ること十数時間前。東京、首相官邸地下。

 出発を目前に控えた代表団の最終確認会議で、矢崎総理は、沖田室長と三神編集長、そして厳選された数名のメンバーに向かって、静かに、しかし絶対的な重さを持つ『訓示』を行っていた。


 日本政府のロンドン派遣団は、過度な軍事色を意図的に排除した編成となっていた。

 沖田室長を現場トップとし、三神編集長を「指定観測者」の要として据える。それに、外交代表、情報機関員、科学技術担当、法務・倫理担当、そして与那国AI関連の知見を持つ医療・環境技術の専門家という、純粋な『実務と知性の精鋭』たちである。

 防衛省は当然のように特殊作戦群の随伴を強硬に主張したが、招待状のルール上、武装要員の持ち込みは厳しく制限されており、ルール違反による「即時失格」のリスクを避けるため、護衛は最小限に留められた。


『今回、日本は、万象器を手に入れて【勝ち】に行くのではありません』

 総理は、円卓の面々を真っ直ぐに見据えて言った。

『世界が、【負けない】ように行くのです』


 その言葉の真意を、沖田も三神も正確に理解していた。


『万象器を誰かが手に入れること(所有権)よりも。……ロンドンのあの会場で、各国の超大国どもが理性を失い、銃を抜いて殺し合いを始めることを防ぐ(封印する)。それを最優先に行動してください』


「総理。かなり難しい注文ですよ」

 三神は、わざとらしくため息をついた。

「世界中の強欲な猛獣たちが、一つの檻の中で肉を前にしてヨダレを垂らしているんです。それを『噛みつくな』と宥めるのは、骨が折れます」


「分かっています」

 総理は、苦渋の表情を見せた。


「だからこそ、我々が行くのです」

 沖田室長が、冷徹な声で応じた。

「銃を多く持ち込めば安全になるわけではない。……アシュワース卿が用意した盤面において、最強の武器は兵力ではなく、『ルールを逸脱しない範囲で、相手の手を縛るロジック』です」


 かくして、極東の島国から飛び立った日本代表団は、厳戒態勢のヒースロー空港の特別導線を抜け、ロンドン市内へと入り込んだのだった。


 サザビーズ本店の周辺は、異常という言葉すら生ぬるい『狂乱の祝祭』の様相を呈していた。


 防護柵の外側には、世界中から集まった数千人規模の報道陣がカメラの放列を敷いている。

 さらにその周囲を取り囲むように、様々な思想を持つデモ隊が押し寄せていた。

「悪魔の機械を直ちに破壊せよ!」と叫ぶ終末論者たち。

「万象器を特定の国家から解放し、人類の共有財産にせよ!」とプラカードを掲げる左派系団体。

 さらには、万象器を新たな神として崇める謎の宗教組織の信者たちが、冷たい雨の降る路上でひざまずき、祈りを捧げている。


 そして、そのカオスの群衆の隙間に、明らかに「一般人」ではない者たちが冷たい視線を光らせていた。

 イヤホンに手を当てる私服の監視員。窓から双眼鏡で会場の出入りを記録する情報ブローカー。黒塗りの防弾車から降り立つ、中東系の王族の代理人や、中国系財団のスーツの男たち。


「……祭りですね」

 三神は、車のスモークガラス越しにその光景を見下ろし、目を細めた。


「祭りにしては、全員の目が全く笑っていませんがね」

 沖田が、隣で吐き捨てるように言う。


「だからこそ、祭りなんですよ」

 三神は、口角を微かに上げた。

「古代の祭り(祝祭)というものは……豊穣を祈るために、大抵、生贄の血が流れるものですから」


 アシュワース卿の招待状は、世界を明確に二分していた。

『招待された者』と、『招待されなかった者』である。


 国家政府、主要な国際機関、一部の超富裕層の財団、ヘルメス協会のような宗教・哲学機関、トップクラスの学術機関。そして三神のような指定観測者。

 彼らは「評価」のテーブルにつく権利を与えられた。


 一方で、武器商人、闇市場のブローカー、過激派組織、新興宗教、そして審査基準に満たないと弾かれた多くの富豪や民間軍事会社。

 招待されなかった者たちほど、「自分こそが選ばれるべきだった」という強烈なルサンチマンと欲望を抱く。彼らは今、サザビーズの警備網の穴を探し、招待状の偽造を試み、あるいは招待された代理人を暗殺して成り代わろうと、ロンドンの裏路地で血みどろの暗躍を繰り広げていた。


 日本代表団は、指定された英国政府の厳重な調整会場セキュリティ・ホテルへと入った。

 そこは、明日の本番を前に、各国の代表団が物理的に顔を合わせ、腹を探り合うための「前哨戦の舞台」であった。


 最初に接触してきたのは、アメリカ代表団だった。


「あなたが、あの三神編集長ですね」

 セレスティアル・ウォッチの科学主任であるケンドール博士(今回はアメリカ政府の科学顧問団の代理として表に出ている)が、歩み寄ってきた。

 背後には、国務省の代表と、鋭い目つきのCIA関係者が控えている。アルファ本人の姿はないが、確実にどこかの監視カメラの向こう側からこの場を見ているはずだ。


「ええ。月刊ムーの、しがない編集長です」

 三神は、わざとらしくへりくだって握手に応じた。


「……しがない編集長を、あのアシュワース卿が『指定観測者』に選ぶとは、到底思えませんがね」

 ケンドールは、眼鏡の奥の目を光らせ、三神の底を探るように言った。


「私も全く同感ですよ」

 三神は笑って受け流した。


 アメリカ側の態度は、表向きは極めて丁寧で、協力的だった。

「ロンドンを戦場にはしない」。その点において、日米の利害は一致している。アメリカは日本の提出する「管理案」に強い関心を示しており、情報の連携を申し出てきた。

 だが、沖田も三神も、彼らが背中に隠し持っている『非合法接収プラン』という抜身のナイフの冷たさを、肌で感じ取っていた。彼らは、ルール内で勝てるなら良し。だが、もし他国がルールを破れば、一瞬でルールブックを破り捨てて暴力で制圧する気満々だった。


 次に現れたのは、中国代表団だった。

 李天明国家主席の特使として派遣された党幹部と、その背後に控える、仙人四十六人の薫陶を受けたとされる若い修行者(観測担当)たち。

 彼らは、以前の中国政府の官僚たちが纏っていたような、露骨でギラギラとした物質的野心(覇権欲)を、見事に隠し通していた。


「万象器は、物質に対する『究極の誘惑』である」

 中国代表の特使は、静かで、しかし傲慢さを隠しきれない声で語った。

「この力を欲望のままに使い、世界を自らの思い通りにしようとする者は、精神的に極めて未熟であると言わざるを得ない。……人類は今こそ、物質の奴隷から脱却し、精神的成熟を優先すべきだ」


(欲しいくせに、かなり無理して我慢しているな)

 三神は、彼らの高尚な言葉の裏に透けて見える「だからこそ、精神的に成熟した我々中国が、愚かな他国を監視(管理)してやらねばならない」という、独善的な支配欲を正確に見抜いていた。


 中国代表は、沖田に向かって探るように問いかけた。

「日本は、与那国の『治癒AI』という奇跡の力を持つ。……あなた方は、この万象器という力を、どう見るか?」


「人類には、早すぎる力です」

 沖田は、一切の表情を崩さずに答えた。


「ならば、使わないと?」

 特使の目が細められる。


「少なくとも、今すぐ使う(起動する)べきではありません」


 その沖田の答えに、中国代表は少しだけ満足そうな顔をした。

 日本が「封印寄り」であるならば、中国の「精神的成熟(我慢)」のロジックと表面上は対立しない。日本を上手く利用して、アメリカやロシアを牽制できると考えたのだ。


 そして、EUの実務官僚たちと、ヘルメス協会の導師たちの集団。

 実務官僚たちが市場の混乱と各国の調整に疲労困憊しているのに対し、純白の祭服を纏った導師たちは、やたらと晴れやかで、陶酔したような表情を浮かべていた。


「万象器は、人類の魂の重さを測る『鏡』です」

 導師の一人が、三神に向かって芝居がかった手振りで言った。


「アシュワース卿も、全く同じようなことを言いそうですね」

 三神は苦笑した。


 すると、横にいたEUの実務官僚が、三神の耳元に顔を寄せ、憔悴した声で囁いた。

「頼みます、ミカミ氏。……彼ら(ヘルメス協会)が、議論をあまりにも神秘主義や宗教的な方向へ飛ばしすぎたら、あなたの言葉で、適度に『現実』へと引き戻してやってくれませんか」


「私、月刊ムーというオカルト雑誌の編集長なんですがね?」

 三神が目を丸くする。


「だからこそです」

 官僚は、切実な目で訴えた。

「あなたは、ただの狂信者ではない。……あの狂った神秘を、現実のロジックに『翻訳』できる、数少ない人間だ」


 EU側のスタンスは「倫理審査」「国際監視」「軍事利用の絶対禁止」。そして、将来的な「人道利用の可能性」を残すというものだった。極めて真っ当だ。

 だが、ヘルメス協会は、その監視機構の中心に座り、世界を精神的に「導く側」に立ちたがっている。その選民思想の危うさが、EU内部に歪みを生んでいた。


 最後に接触したのは、この会場内で最もピリピリとした危険な緊張感を発している集団。

 ボグダノフ大統領の代理として派遣された、ロシア代表団だった。


 分厚い胸板の軍事技術担当官が、沖田と三神を値踏みするように上から下まで舐め回し、露骨な敵意を込めて言った。


「……日本は、この力を使わずに『封じ込める』ために、わざわざ極東から飛んできたのか」


「危険を正当に『評価』するために来ました」

 沖田が、冷たく弾き返す。


「危険を理由に、人類の進歩と圧倒的な力を止める。……いかにも、アメリカの傘の下でぬくぬくと太った、豊かな国の弱者の発想だ」

 ロシア代表は、侮蔑の笑みを浮かべた。

「飢えた者、不当に資源を奪われた者、そして今まさに戦火と貧困の中にいる者にとって。万象器がもたらす無限の資源(兵站)は、唯一の『救済』なのだ。それを封印するなどという偽善は、持たざる者に対する暴力に他ならない」


「救済と兵站(戦争)は、時として、非常によく似た顔をしていますからね」

 三神が、横から飄々とした声で口を挟んだ。


 ロシア代表の冷酷な瞳が、三神をキッと睨みつける。

「……貴様が、指定観測者か」


「ええ。皆様がどう動くかを観測するだけの、しがない編集者です」


「気をつけろ」

 ロシア代表は、脅すように低く唸った。

「戦場において、何も持たずにただ眺めているだけの『観測者』という生き物が……時に、最も先に殺される危険な存在だ」


 三神は、肩をすくめて笑っただけだったが。ロシアが、明確にルールの外側(暴力)での解決を視野に入れていることだけは、疑いようがなかった。


 主要な国家代表との顔合わせを一通り終え、日本代表団の控室に戻った後。

 三神は、ソファに深く沈み込みながら、沖田に向かってポツリと漏らした。


「……皆さん、見事に【買いに来た顔】をしていませんでしたね」


「どういう意味です?」

 沖田が、上着を脱ぎながら問う。


「サザビーズというオークションハウスに集まっているのに、誰も『純粋な買い手』の顔をしていないということです」

 三神は、天井を見上げた。

「奪いに来た者(アメリカ、ロシア)。

 封じに来た者。

 裁きに来た者(EU)。

 導きに来た者(ヘルメス協会)。

 救済を求める者。

 ……そして、自分が神に選ばれる資格があるかどうか、試しに来た者(中国)。

 全員が、全く違う理由で、同じ一つの箱(万象器)を見つめている」


「日本は、どう見えますか」

 沖田が、自嘲気味に聞く。


「日本は……【怖がり】に来ています」

 三神は、素直に答えた。


「悪い意味ですか?」


「いいえ」

 三神は、首を横に振った。

「万象器という『価値を壊す怪物』を前にして。……正しく怖がれる(立ち止まれる)ということが、今回は一番の【強み】になるかもしれません」


 その夜。

 ロンドン市内の某所にある、アシュワース財団の関連施設にて、明日のサザビーズ本番に向けた『前夜ブリーフィング』が開催された。


 出席者は、厳しい認証をパスした各招待枠の代表者のみ。

 演台には、サザビーズの広報責任者であるエドワード・フェアチャイルド、数名の冷徹な遺言執行人の弁護士、そして顔色の悪い英国政府の危機管理担当者が並んでいた。


 フェアチャイルドは、相変わらずの完璧な所作と深いバリトンボイスで、明日の『評価手続き(オークション)』の厳格なルールを読み上げていく。


「明日の評価手続きは、予定通りロンドン・サザビーズ本店にて実施されます。

 ……再度確認いたしますが、会場内外における暴力行為、妨害、他参加者への威圧、および万象器への非合法な接触を試みた陣営は、その瞬間にシステムにより【即時失格(評価権剥奪)】となります。

 各代表団に作成していただいた『管理案』は、すでに強固に暗号化された状態で、遺言執行システムへと提出されております。明日は、その管理案の内容そのものが『審査対象(入札)』となります」


「現物は、どうなっている?」

 ロシア代表が、苛立ちを隠さずに声を上げた。

「現物(万象器)を見ずに、机上の空論の管理案だけで評価しろと言うのか!?」


「明日、審査に必要な範囲で、厳重なプロテクト越しに皆様に提示されます」

 フェアチャイルドは、表情を変えずに答えた。


「現物の安全性は保証されているのか?」

 アメリカ代表が、鋭く問う。

「もしあれが暴走の兆候を見せた場合、我々には対処の義務がある」


「卿の残した厳格な指示に従い、完璧な状態で保管されています。ご安心を」

 フェアチャイルドが返す。


「その『卿の指示』が正しいと、誰が保証するのだ?」

 中国代表が、疑念を口にする。


「……卿、ご自身です」

 遺言執行人の一人が、マイクに向かって静かに答えた。


 その不気味な回答に、会場がざわつく。

 死者が、自らのシステムの安全性を保証している。まるで、アシュワース卿が今もどこかで生きているかのような言い回しだった。


「……フェアチャイルド氏。一つ、お尋ねしたい」

 三神編集長が、席から軽く手を挙げて発言した。


「何でしょうか、指定観測者のミカミ氏」

 フェアチャイルドの視線が、三神を捉える。


「我々の一部に送られてきた招待状の追伸に……【第二の問いが待っている】という言葉がありました。その心当たりは?」


 会場の各国の代表たちが、一斉に息を呑み、フェアチャイルドに注目した。彼らもまた、その「第二の問い」の正体が何なのか、暗躍して探っていたからだ。


 フェアチャイルドは、ほんのわずかだけ、口角を上げて微笑んだ。


「明日、本会場にて。……皆様全員に、全く同じ形で提示されます」


「今は教えられない、と?」

 三神が食い下がる。


「試験問題を前日に漏らしてしまう教師は……生徒に対して『優しく』はあっても、『公平』ではありませんので」

 フェアチャイルドは、完璧な英国紳士のユーモアで躱した。


「……いかにも、アシュワース卿らしい」

 三神は、肩をすくめて引き下がった。


「本日のブリーフィングの最後に」

 フェアチャイルドは、演台に両手をつき、参加者全員を見回した。

「明日の評価手続きに向けた【事前課題】として、アシュワース卿から皆様に、一つの大きな『テーマ』が提示されております。皆様の提出された管理案が、このテーマに沿っているかどうか。今夜、ご自身の胸に手を当てて、再確認していただきたい」


 会場が静まり返る。


「事前課題。

 ……『万象器が、人類に【何を与えるか】ではなく。……人類が、万象器に【何を禁じるべきか】を述べよ』」


 その言葉が響いた瞬間。

 各国の代表団の顔色が一斉に変わった。


 アメリカ代表は、自らの作成した「使用制限と封印のプロトコル」が間違っていなかったと確信しつつも、どこまで踏み込んで禁じるべきかと思考を巡らせた。

 中国代表は、「精神的資格のない者からの隔離(禁止)」というロジックをさらに補強する腹づもりを決める。

 EUは、急ぎ「新たな倫理憲章(禁止事項)」の条文作成の詰めに入った。

 ロシア代表だけが、露骨に不快な顔をして舌打ちをした。

「禁じる(制限する)ことから始めよなどと……やはり、力なき敗北者の発想だ」


 そして、日本。


「……我々の方向性と、極めて近いです」

 沖田が、三神に向かって小声で言った。

 日本が用意した管理案は、最初から「軍事利用の禁止」「自己複製の禁止」「単独所有の禁止」「無審査起動の禁止」など、『禁じること』を前提にした封印寄りのプランだったからだ。


「ええ。アシュワース卿は、我々の『欲望(欲しいもの)』よりも先に、『理性(禁止事項)』を聞きたがっている」

 三神は、深く頷いた。

「日本の答えは、かなり卿の好みに合うはずです」


 ブリーフィングが終わり、各代表団が慌ただしくホテルへと戻り、明日の本番に向けた最後の作戦会議(徹夜の修正作業)に入った、その夜のこと。


 ロンドン市内の外れにある、サザビーズの関連倉庫の一つで。

 小規模だが、極めて異常な『事件』が発生した。


 招待状を得られなかった某国の非公式勢力(あるいは民間ブローカーの武装集団)が、オークションの参加者名簿、あるいは万象器の保管場所の手がかりを探るため、倉庫のセキュリティ網への物理的な侵入と、サザビーズ職員の買収を試みたのだ。


 だが、彼らの作戦は、開始直後に完璧に失敗した。


 英国MI6の監視網に引っかかったからではない。

 彼らが倉庫の電子ロックにハッキング・デバイスを接続した瞬間。……彼らを裏で操っていた『財団(あるいは国家の代理人)』のメインサーバーと、オークション参加者の全端末に対して。


 遺言執行システムから、無機質な一通のアラート通知が、一斉に送信されたのだ。


『Evaluation Right Forfeited(評価権、剥奪)』


 ルール違反のペナルティ。

 当該勢力は、明日のオークション会場への入場資格を、完全に、そして自動的に喪失した。


 深夜の日本大使館の安全室で、その通知を受け取った沖田室長は、画面を凝視して息を吐いた。


「……本当に、リアルタイムで採点(監視)している」


「でしょうね」

 三神も、コーヒーカップを片手に、その無慈悲な通知を眺めていた。

「アシュワース卿のルールは、脅しでも飾りでもありません。……『第一問』は、あのサザビーズの会見の瞬間から、ずっと続いていたんですよ」


「第一問……」


「ええ」

 三神は、窓の外のロンドンの夜景を見つめた。

「圧倒的な力(万象器)を見た時に。……獣のように強奪する前に、『立ち止まれるか』どうか。

 ……立ち止まれず、ルールを破った愚か者から順に、容赦なく足切り(落第)されているんです」


 翌朝。


 ロンドン特有の、深く、冷たい霧が街を包み込んでいた。

 街は、不気味なほどに静まり返っている。だが、そこにいる全員が知っていた。この静けさが、致死量の爆薬に火がつく寸前の、嵐の前の完全な沈黙であることを。


 ニューボンドストリートのサザビーズ本店の前には、各国の国旗を掲げた黒塗りの車列が、次々と滑り込むように到着していた。

 アメリカ、中国、EU、ロシア。

 超富裕層の財団。ヘルメス協会の導師。そして、学術機関の代表たち。


 全員が、極度の緊張を隠したまま、同じ重厚な扉の中へと吸い込まれていく。


 日本代表団の車を降りた三神は、見上げるようなサザビーズの石造りのファサードを見上げ、ポツリと呟いた。


「さて」

 三神は、スーツの襟を正す。

「死んだ貴族の試験。……いよいよ『第二問』ですね」


「……我々は、答えられると思いますか?」

 沖田が、現場指揮官としての重圧を背負ったまま、三神に問うた。


「分かりません」

 三神は、振り返り、いつもとは違う真剣な目で沖田を見た。


「ただ一つ言えるのは……もし答えを間違えた場合。我々人類に下される『ペナルティ』は、あまりにも大きすぎるということです」


 ロンドン・サザビーズ本店の、重厚な扉が開かれた。

 そこに待っていたのは、人類の欲望を満たす魔法の箱(万象器)などではない。

 人類が、自らの果てしない欲望をどこまで【禁じる】ことができるかを問う、あまりにも冷酷で、残酷な、第二の試験会場であった。



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ロシアとヘルメス協会が落第しそうだ。
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